「特別な」プロジェクトや著名な専門家を特別扱いしない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年4月20日】 師父は『轉法輪』「第六講」の中でこう説かれました。

 「一部の人はわたしのまわりで仕事をする学習者たちを見て、良いものか悪いものかの区別もせずに、その話しぶりや立ち居振舞いの真似をしています。本当はどこの誰であろうと、法は一つしかなく、大法に従っているかどうかが、本当の基準です。わたしのまわりの人は特別な指導など受けていません。彼らは研究会の係員に過ぎず、みんなと同じですので、そういう心をもたないようにしてほしいのです。そういう心をもつと、あなたは知らないうちに大法を破壊する役割を果たすことになります。人の耳目をそばだたせるような噂を流したりすると、トラブルまで引き起こしかねません。学習者が執着心をかき立てられ、争って先生の近くで何か特別なことを聞こうとしたりします。こういうことは、いずれも同じ問題ではありませんか?」

 師父は講義の中で、繰り返し弟子たちにこう警告しておられます。誰も特別ではなく、皆修煉する人間です。身分、社会的地位、職業、国籍の違いは、凡人の間での違いに過ぎません。修煉は誰にとっても同じです。大法弟子が人々を救うために行うプロジェクトも同様です。プロジェクトの形態は異なりますが、目的は同じです。それは、師父が人々を救い済度するのを手伝うことです。

 こうしたプロジェクトを人間的な理性で評価し理解しようとする修煉者もいます。そして、参加する修煉者を人間的な観念や感情で扱うのです。例えば、彼らは神韻の演者を特別な存在だと考え、アーティスト、テレビ司会者、俳優、著名人といった人達を、スターを追いかけアイドルを崇拝する一般人と同じ人間的な心構えで扱います。

 学習者を崇拝し、偶像化すると、学習者の顕示欲、名声欲、自己肯定欲が容易に喚起され、強められてしまいます。中国では、才能もなく凡人から見下されている者でさえ、一人の学習者を崇拝することで、自惚れが強くなり、自分が誰よりも優れていると思い込むことがあります。そして、一旦「自分の心より魔が心から生じること」(『轉法輪』「第六講」)、つまり誤った悟りを得ると、他の学習者も巻き込んで堕落させてしまいます。こうして多くの衆生と宇宙が滅ぼされ、師父の法を正すことに多くの妨害と災難がもたらされます。このような教訓はあまりにも多く、損失は甚大です。

 神韻の芸術家たちは並外れた才能を持ち、目覚ましい成果を上げています。彼らはどこへ行っても観客から歓迎され、愛され、称賛され、尊敬されています。これは彼らの人格にとって大きな試練です。このような状況下で彼らは謙虚さを保ち、正念を保つことさえ難しいのに、もし他の修煉者も彼らを偶像化したら、偶像化は彼らの人間的な観念を助長し、心性の試練をさらに困難にするでしょう。

 世界一流のレベルに到達するには、神韻芸術家たちは厳しい訓練、肉体的な苦痛、プレッシャー、困難、挫折、そして専門家からの批判に日々耐えなければなりません。その一方で、安楽な生活、一般社会からのあらゆる享楽、称賛、つまり名声、富、感情といった欲望を満たすあらゆる機会が存在します。彼らにとって正念を保つことさえ困難です。もし、彼らが他の修煉者に媚びへつらわれたら、さらに困難になり、逆に逆境へと追いやられてしまうのではないでしょうか。さらに、彼らの中には、意志力やその他の資質が鍛えられ、成熟していない新しい修煉者や若い弟子もいます。

 番組制作や動画撮影においては、効果的なフィードバックを得ること、そして批判を受け入れることが不可欠です。学びと経験を積み重ねることによってのみ、真のプロ意識を高め、より質の高い作品を生み出すことができます。限られたファンの輪の中に留まっていると、視野が狭まり、成長が難しくなります。

 メディア、映画、テレビのプロジェクトが成功を収め、賞賛や表彰を得ることは、そのプロジェクトに参加する学習者にとって、それ自体が試練となります。他の学習者がスターを追いかけ、彼らを偶像化すれば、名声や富への欲求、称賛を求める欲求といった人間的な観念が刺激され、彼らの進歩と向上に影響を与えるでしょう。

 したがって、「特別な」プロジェクトや同修に関して、あまり熱狂的になりすぎてはいけません。むしろ、理性を保ち、修煉者らしい純粋な心構えを保つべきです。そうすることで、自分自身、同修、そして人々を救うプロジェクトに対して責任を持つことができるのです。

 師父は説法の中で、神韻プロジェクトのいくつかの状況について触れられました。

 「このことについて私も身をもって知っています。神韻の草創期に、皆さんは神韻に対する認識が不充分で、『子どもがダンサーになって、引退後何をやればよいのか』と思っていました。しかし、師父は子どもを使い捨てにしないのです。ちゃんと子どもの将来を考えています。そのため、中学、大学、大学院を開校しました。当時、親は子どもを神韻に入団させることに躊躇し、子どもと離れたくないと思っていました。しかし、十二、三歳はちょうど技能を習得する時期で、体も柔らかいのですが、親は子どもと離れたくないと思っていたのです。十四、五歳になると、十五歳の子はもう手に負えなくなり、口答えしたり反抗するようになります。このままではダメだと分かり、山の方に送りたいと思ったわけです。(皆さん笑って)しかし、すでに体が硬くなり、山に来ても厳しいのです。このことは私もよく分かっています」(『各地での説法十五』「二〇一八年ワシントンDCでの説法」)

 師父の教えに対する私のこれまでの理解は、「師父の教えに耳を傾けることによってのみ、人は自分の道を順調に歩むことができる」という程度に限られていました。そうでなければ、自分の考えに従って物事を進めることは、余計な苦労と苦痛を自分にもたらすことになります。当初、修煉者たちの行動は不適切であり、神韻プロジェクトに対して無責任だと感じていました。 

 数年前、ある記事で、中国のある修煉者が子供を飛天学院に通わせるために嘘をついているという記事を読みました。当時は、中国共産党の洗脳による、ただ嘘をつくという悪い習慣だと思っていました。最近、アメリカで私たちの修煉に試練が降りかかっています。記事の共有を通して、中国国外の修煉者も子供を飛天学院に通わせる動機が不純であることを知りました。正直に言って、中国にいる私たちは衝撃を受けました。飛天学院は修煉者が個人的な問題を解決する場所なのでしょうか? 修煉者は師父に頼んで、これらのことをしてもらってもよいのでしょうか?

 修煉者が子供を神韻に参加させたいと願うことは、何ら悪いことではありません。しかし、表面上は師父が人々を救うのを手伝っていると言いながら、心の中では神韻プロジェクトを個人的な執着や人生の目標達成の場とみなし、子供に親の目標達成を強制しているなら、そのような参加は本当に師が法を正すことを手伝う役割を果たせるでしょうか? 大法プロジェクト、あるいは師父と大法を利用しようとする隠れた願望があるのではないでしょうか? これは修煉者自身にとって非常に深刻な問題です!

 私たち大法修煉者が、この精神修煉への試練に直面し、中国共産党が師父と大法を直接攻撃し、修煉者の間で様々な人間の考えが暴露される状況に直面して、大法修煉者としての自分の身分、修煉者同士、人々を救い済度するプロジェクト、そして私たちを救い済度してくださる師父と大法に対して、どのような心構えを持っているのか、真に自問自答する必要があります。私たちは自分自身を省察し、自分が大法修煉者という称号と師恩に値するかどうかを判断しなければなりません。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/1/22/488867.html
 
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