文/米国の大法弟子
【明慧日本2025年5月4日】陰徳とは、よく言われる「人は徳を積まなければならない」の徳のことですが、道家においては陽徳・功徳・福徳と区別するために、この徳のことを、「陰」の字を付けて「陰徳」と表現します。
陰徳とは、善行は人知れず行い、自分自身さえもその行為を忘れてしまうほどに見返りを求めず、他人に知られることも望まず、純粋な善の心・善念から、人のために尽くし、黙々と、たゆまず、常に善を行うことを指します。
陰徳を積む者は、善念を持ち善行に対して見返りを求めないため、天は必ずその者に福を授けます。しかも、それは思いがけない形で現れるものです。とはいっても陰徳を積む者は功利を目的としておらず、あくまでも内なる慈悲と道徳心の発露として善行を行ったのであって、思いがけず天から福報を得たとしても、天へ感謝はしても(功利を得たことに喜びを覚えることもなく)さらに励んで善を行い、神からの恩恵にふさわしい人間となろうと努めるにすぎません。
これに対し、人に知られることを目的に善を行うことは「陽善」といいます。陽善を行う者は、世間の名声を得ることがあるかもしれません。世間の名声も一時的な福と見えるかもしれませんが、天地にとっては忌むべきものです。
特に名声を得ること自体を目的とする者は、自らの善行を誇張し、虚名を求め、己を飾ることに固執します。すなわち陽善とは、実際には他人のためではなく、自分自身のための行為であるため、福報を得るどころか、かえって不幸を招くことになります。
しかし、中国共産党(以下、中共)による百年にも及ぶ洗脳と思想の植え付けにより、多くの中国人は無神論者や現代主義者(モダニズムのこと。訳注:伝統的な手法や価値観を否定し、現代的な新しさを追求する態度や表現方法)となり、もはや神が人に求める道徳規範を知りえません。
2003年、明慧ネットに『金佛』という文章が掲載され、師父はこの文章に評注をお付けになり、すべての大法弟子に「読んでみるように」と勧められました。あれから22年、今一度この文章を読み返すことで、それぞれの修煉における問題を整理する手助けになるかもしれません。