師父の講習会の説法を聞いた懐かしい日々
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文/中国・長春市の大法弟子 春蓮

 【明慧日本2016年1月6日】私は今年で79歳になる朝鮮族のおばあちゃんです。中国語はあまり話せないのですが、師父は私のような迷いの中に落ちた人を見放すことはありませんでした。1993年、法輪大法の修煉を始め、師父についてたくさんの都市を訪れました。何回も師父の説法を聞けて本当に幸運だと思います。それは永遠に忘れられないことです。

 当時、私は60歳前で夫を病気で亡くしました。もし私が体調を崩したら、息子に世話をしてもらわなければいけなくなると思い、子どもたちに負担をかけないために体を鍛えようと思いました。ちょうどその時、気功ブームでした。今でもはっきり覚えていますが、1993年7月22日朝5時ごろに起きて、児童公園に行くと、気功をやっている人たちがいて、あちらで方では飛び跳ねているグループもあり、そちらでは泣いたり、喚いたりしているグループもあって、これらの気功はやってはいけないと思いました。公園の奥に進んでいくと、目を閉じて立ったまま、両手を顔の前に置いて、じっとしている人達がいました。近くの樹には旗が掲げられており、その旗の上に丸い図(訳注:色鮮やかな法輪の図形)がありました。この気功が良さそうだと思い、私は真似して目を閉じて腕を上げました。その時、旗の上に描かれていた図(法輪)が現れました。そしてその丸い図(法輪)が回っているのを見て、私も回り始めました。

 突然、誰かが私の右肩を叩いて「どうして回っているのですか? 間違っていますよ」と言われ、「あの輪が回っているのを見て、私も自然と回りました」と答えました。その時、はじめてこの気功が法輪功だと知り、あの図は法輪であり、法輪が回っていたことを知りました。その後、私も『法輪功』の本を購入し、勉強し始めました。

 本を読んで煉功してから、法輪功の素晴らしさが益々わかりました。師父は長春ですでに6回も講習会を開かれていたのに、縁が無かったため、私は全く知りませんでした。

 ある日、師父がホールで補導員のために説法すると聞いて、私も行きました。しかし、師父が既に説法を始められていたため、入り口の門は閉められていました。門の前には何人かが踏み台の上に立ってドアの隙間から中を覗いていました。私も前に割り込んで机の上に立って隙間から中を覗きました。そのうち、他の人がいつの間にかいなくなり、私しか残っていませんでした。あまりに一生懸命中を覗いていたので、ドアが開いてしまいました。警備を担当する法輪功学習者が、「どうぞ、お入り下さい」と言ってくれました。私が入ったときには師父の説法も終わり、皆が師父の周りでサインを求めていました。その時、はじめて師父を見ました。背が高くて、体格が良くて、常に笑顔で、穏やかで、風貌のある立派な人でした。他の人は師父に綺麗なノートを渡していましたが、私は持っていませんでした。ただ上着のポケットに一冊の手のひらより小さいバラバラになったメモ帳がありました。それを師父に渡すと師父は全く気にせず受け取ってから、「李洪志」の三文字を書いてくださいました。数日後、師父が北京で講習会を開くことを知り、私も北京へ向かいました。全国各地から法を求める人が相次いで来て、北京のスタッフたちは、私たちに数日後、安徽省(あんきしょう)で、また講習会があると教えてくれました。

 私たちは安徽省へ向かいました。同行した11人の中で、一番年上の人は福建省から来た80歳くらいの人で、一番年下の人は11歳で、私は上から3番目でした。私たちは列車に乗って安徽省・合肥市に到着しました。

 師父の講習会までまだ7日あったので、私たちはずっと待ち続けました。当時の環境は悪く、インスタントラーメンですら、ましな食事でした。私たちは皆それぞれ電気ポットの湯で乾麺を茹でて、塩を振って食べていました。法を求めるため、苦を舐めても気にしませんでした。

 師父が列車に乗ってくることを聞いて、駅に迎えに行きました。その日は大雨で、私たちは雨具がなく、ビニールシートをかぶって紐で腰のあたりを縛って固定し、ビニール袋を頭にかぶりました。見た目は冴えないのですが、私たちは駅のホームで待ちました。師父がどの車両から降りて来られるのかわからないので、皆で相談して、各車両の出口に一人ずつ立って待つことにしました。師父が降りて来られたのを見たら、その車両の人が他の人を呼ぶことにしました。

 ようやく列車が到着しドアが開きました。師父は私が待っていた車両から降りてこられました。一回しか師父に会ったことがなく、師父であるか最初は確信が持てませんでしたが、目の前におられる背が高くて、微笑んでおられる方は、確かに師父だとわかりました。私は師父に近づいて挨拶をしました。師父は私と握手してくださり、私が「長春の学習者です」と自己紹介したら、師父は「知っています」とおっしゃられました。どうして師父はご存知なのだろう? と思い、もう一度「私は長春から来たおばあちゃんです」と自己紹介しました。師父はまた「私は知っています」とおっしゃられました。私はやはり中国語の発音が正しくないため、師父は聞き取れなかったのではないかと思い、もう一度「私は長春から師父の説法をお聞きしに来ました」と言いました。師父はまた「私は知っています」とおっしゃられました。あまりにも嬉しかったので、皆を呼ぶのを忘れてしまいましたが、その時初めてこのことを思い出し、頭にかぶったビニール袋を取って「師父はここにおられます」と叫びました。皆が集まってきて、師父は一人ずつ握手してくださいました。福建省から来た一番年寄りの学習者だけは、師父の手を握って離そうとしませんでした。

 この時、北京のスタッフも着いて、皆で師父をご案内しました。師父は1993年11月21日から12月1日まで安徽省・合肥市での講習会を行われました。

 説法の間、師父は学習者のために体を浄化してくださいました。ある男性の学習者は、ステージに上がった時、腰が90度に曲がっていたのですが、降りた時は真っ直ぐになっていました。ステージ上で師父が治されたのを、会場にいた全ての学習者は目にしました。会場は拍手喝采で、感動して涙を流す人もいました。しかしこの短い間にどのように治したのか、私たちにはわかりませんでした。本当に不思議でした。

 ある時、師父は学習者に手のひらを上にして両手を前に伸ばすようにおっしゃられました。師父が法輪を植え付けてくださることを体験させてくださいました。その時、手のひらに法輪があるのが見える人もいれば、手のひらが熱く感じる人もいました。またある人は手のひらが冷たく感じ、冷たく感じた人は体に病がある人でした。またある学習者は講習会に参加する前に憑き物が憑いているとわかっていたので、ステージに上がって自分に憑き物があるのでそれを取り除いて欲しいと師父にお願いしました。師父は手でちょっとつかんだだけでその人の憑き物を取り除きました。師父はその場にいた学習者全員に、自分の体にある病の部分を思い浮かべさせ、それから師父は一回足踏みをしただけでそれらの病気を取り除いてくださいました。師父はあらゆる方法で学習者たちの体を調整してくださり、これらは全て私が自分の目で見たことです。私たちの師父は本当に無量の慈悲をもって、何でもやり遂げられます。

 私は以前、気功を習ったことはなく、知識もあまりありませんでしたが、ただ講習会での師父の説法は、本当に素晴らしく、大法は素晴らしいということだけはわかりました。

 1994年4月、師父について遼寧省・錦州市に行きました。海に面した都市で、市場ではたくさんシャコが販売されていました。店員はとてもおいしいと紹介し、熱心に調理方法まで教えてくれました。そのため私はシャコを5キロ買って、店員に茹でてもらいました。それを持って宿泊所で皆と美味しくいただきました。

 当時は殺生の問題について重視していませんでした、自分が人を傷つけないように気をつけていたので、良い人だと思っていました。殺生で業力を作ったことに思い至りませんでした。私が悟らないのを見て、夢の中で師父が教えてくださいました。夢のなかで私は天上の世界にいて、シャコたちがびっしり列になって私の道を阻みました。その中に3匹の鶏がいて、首を斜めにして私を睨みました。その時私はやっとわかりました。列をなしていたシャコは私が買った5キロのシャコで、私たちはそれを食べてしまいました。鶏は息子が結婚した時に殺したもので、私は主人を亡くしていたので修煉者でありながら、結婚式の決まりのため鶏を殺してしまいました。彼らは私の修煉の道を阻み通そうとしませんでした。目が覚めた後、殺生によって造った業力が修煉の道の障害となり、どれほど深刻な問題なのかやっと認識できました。業に業を重ねてしまい、それを返さなければなりません。その時、体のあちこちが痛くて辛い思いをしました。

 4月29日、長春で第7回法輪功講習会が始まりました。地元に戻ってから、私は地方から来た学習者を案内するチームに参加しました。皆当番制で、長春駅で案内板を持って待っていました。当時、風が強く皆全身埃だらけで、顔にも黒い埃がたくさんついて、目だけがまばたきしているのが見えました。それでも皆嫌がることなく何回も地方から来た学習者を迎え入れました。その時、私たちの師父がいらっしゃり「皆さんお疲れ様でした。食事は済まれましたか? 困ったことはありませんか? 天気が良くないので体調に気をつけてくださいね」と優しく声をかけてくださいました。師父の言葉を聞いて私たちは心の中で暖かさを感じ、寒さや風の冷たさなどは感じませんでした。

 第7回の講習会では、全国各地からたくさんの学習者が集まりました。新彊(しんきょう)から黒竜江省の最も北側、沿海地区から飛行機で来た学習者もいれば、天秤棒を担いでくる人もいました。大法を求め、学習者たちははるばる遠くからやってきました。その後、車で送迎するチームもできました。吉林大学の鳴放宮で昼と夜、合計3000人の学習者が講義を受けました。講習会の間に不思議なことがたくさんありました。多くの同修はその思い出を交流文章にしました。

 6月下旬、師父が済南市で第2回の講習会を開かれました。その間に起きた何件かのことを今でも覚えています。

 当時はちょうど真夏の暑い日で数千人の学習者が、皇亭体育館の1階と2階にぎっしりと座っていました。あまりの暑さに耐え切れず、一部の学習者は師父の説法を聞きながら扇子を出して扇ぎました。師父は「扇子で扇ぐのを止めれば、涼しい風が吹いてくるのを感じられます」とおっしゃられ、会場の学習者はすぐ扇子で扇ぐのをやめました。師父は「感じられましたか?」とおっしゃると、学習者は一斉に「感じました!」と答え、皆興奮して拍手をしました。その拍手の音は、とても大きく鳴り響きました。

 講習会の最後の日、師父は繰り返し学習者に注意されました。「明日、大連の講習会に参加する学習者は、飛行機に乗らないでください。覚えておいてください。列車や船に変更してください。今晩の列車やバスのチケットを購入した学習者たちは、駅まで送ってもらってください」 その後師父はずっと入り口に立たれて運転手に、夜に大連に向かう学習者を大連に送るように、支持されていました。その日は大雨が降り、水が膝下まで浸かりました。私を含む7人の学習者は、すぐ30日の飛行機の予約をキャンセルし、バスや船に乗って無事に大連に着きました。後になってわかったのですが、あの日の飛行機は大雨の影響で欠航しました。師父は私たちを邪悪の按排から身の安全を守ってくださいました。今でもあの時のことを思い出すと、心が平静でいられなくなり、涙が出てきます。

 7月1日、大連の第2回目の講習会が開かれました。その時大連の煉功場の責任者が、写真を見せてくれました。それは師父と一緒に写った写真で、後ろには目や鼻の輪郭がはっきりと見える双頭の龍が写っていました。その他に2本の宝剣も写っていました。

 私たちの師父は何でもできます。しかし修煉者に対して師父は繰り返し「功能は本より小術 大法こそ是根本」[1]と説かれました。これは師父が大連の海辺で書かかれた詩で、その後『洪吟』の中で発表されました。7月7日、大連の講習会が終わる前に師父は「真に大法を修し 唯此だけを大と為す 大法に同化し 他年必ずや成る」[2]と詩を残されました。これもその後『洪吟』の中で発表されました。

 一カ月後、8月5日から12日、私はまた師父のハルビンでの講習会に参加しました。その講習会では様々な方面からの妨害が大きかったのです。説法している中で師父は時々咳をされました。当時私は、師父が法を伝えるため沢山の苦労をされいて、毎日このように法を説かれているので、きっと喉が痛いのだろうと思いました。私は心が痛み、ずっと泣いていましたが、ふと師父は神であり、神は病気がないと思い、自分の人間の観念を改めました。これは師父が私たちのために業力を肩代わりしてくださっているのであり、私は自分の悟性が悪いことを恥ずかしく思いました。しっかりと法を勉強し、自分の黒い物質を白い物質に転化させ、師父の負担を減らそうと心に決めました。

 大法はあっという間に広まり、延辺地区では多くの人が法を得て、学習者は師父が延辺地区で講習会を開けるよう努力していました。私も昔の勤め先の人たちに、この素晴らしい大法を広めるために協力してもらうよう連絡していました。

 1994年8月20日から27日まで、師父は延吉市で講習会を開かれました。この地区の住民は少数民族であり、朝鮮族が半数以上を占めています。朝鮮族の学習者は皆、師父が法を伝える日を自分の民族の記念日とみなして、色鮮やかな民族衣装を身にまとい、まるで花のようにとても綺麗でした。皆最もフォーマルな礼儀作法や装いで、師父を迎え入れました。師父もとても喜ばれ、学習者も興奮して嬉しそうに師父と撮影をしました。これは師父が中国で唯一、少数民族地区で行われた講習会です。その後、ハングルの『轉法輪』も出版されました。朝鮮族の学習者は本当に幸せです!

 私も朝鮮族です。延吉市は私が長年生活と仕事をしてきた場所です。長年離れていたのですが、再び戻って師父の説法をお聞ききすることができて、師父にとても親しみを感じ、まるで師父が自分の家にいらっしゃったような感じでした。

 師父は延吉市で行われた講習会の収入全てを、延吉赤十字協会に寄付されました。延吉市を離れる時、何人かの煉功場の責任者がタクシーで師父を駅に送りました。どうして自分の車ではなくタクシーで送ったのか、と私は心のなかで不満を持ちました。しかし師父は「このタクシー代は私が払います。私は学習者から1円ももらいません」とおっしゃり、師父は自分でタクシー代を支払われました。

 このことが延辺地区の学習者の間に広まり、皆「師父が行われたことを、私たちも見習いましょう」と言いました。

 これらのことは学習者を感動させ、延辺地区の学習者の永遠の思い出となりました。

 1993年末から師父は安徽省・合肥市で講習会を行われました。千山万水を経て師父について大法を求めていました。毎回の講習会で師父の説法を聞いて、新しいことを悟り、師父とともにいた日々は言葉では言い表すことができないほど幸せでした。

 1995年『轉法輪』が正式に発表された後、師父は海外へ説法に行かれました。

 1995年の冬、師父は帰国されました。私と地方の2人の同修は師父の家を訪ねました。建設広場の近くの古い住宅でした。師父のご自宅は広くなく、キッチンを含めて部屋が3つしかなく、極めて質素ですが、非常に清潔でした。壁には師父が自ら描かれた仏像の絵が飾られ、絵には女佛と道士、そして孫悟空も描かれていました。繊細なタッチで非常にいきいきとしていました。師父は黄金色のみかんを私たち3人に与えてくださいました。他の2人の同修はみかんをその場で食べてしまいましたが、私はそのみかんをコートのポケットに入れて家に帰った後、写真を撮ってから神棚に置いて永遠の記念としてとっておきました。師父の弟子に対する慈悲と優しさは、弟子たちを励ましてくださいました。

 師父の家から出て、私たち3人はとても嬉しい気持ちでいっぱいでした。暗くなって雪が降った後、地面は雪に覆われとても綺麗でした。私たち3人はあまりの嬉しさで、お互いに押したりして師父の家の建物の下の地面で笑いながら転げ回りました。当時私たちは50~60代でしたが、心の中の嬉しさをどのように表現すればいいかわからず、子供のように喜んでいました。後からわかったのですが、師父と奥さんは窓から私たちを見ておられました。

 その後、何年も師父にお会いすることが出来ず、とても寂しく感じました!

 1998年7月26日、師父は長春に戻られ、シャングリラホテルで補導員たちのために説法をされました。私はこのことを聞いた後、すぐに当時の煉功場のリーダーに参加したいと申し出ました。許可を得た後に、私は補導員たちについてホールに入り、壁の近くの席に座りました。師父がいらっしゃったのを見て、皆一斉に大きな拍手が沸き起こりました。思ってもみなかったことですが、師父は私が座った席の通路側から歩いて来られました。私は両手を合掌し、「尊師、こんにちは」と言いました。師父は笑顔で私と握手をしてくださった後、左手で私の肩を叩いて「よくいらっしゃいましたね」と嬉しそうに声をかけてくださいました。その時私はとても嬉しく感じ、幸せを感じました。頭のなかは真っ白で夢ではないかと思いました。もし本当に夢であれば夢から醒めたくないと思いました。その日師父は5時間にわたり説法をされました。これは迫害の前に行われた中国での最後の説法となりました。

 翌日、私を含め師父は、十数人の学習者と一緒にレストランで食事をされました。私は師父の右側に座りました。

 「肉は食べないのですか?」と師父は笑顔で話しながら、一枚の肉を運んでくださいました。師父は私がそれを食べたのを見て、微笑まれました。師父は学習者に最大限に常人社会の状態に符合しながら修煉するよう要求されました。肉を嫌う心も取り除かなければなりません。

 師父はこの宇宙大法を私たちに授けられ、仕事や生活上での態度も私たちに良い見本を残してくださいました。師父と共にいる時間が長くなるにつれ、生活上の些細な習慣もわかるようになりました。食事をされる際に師父は食事を残されることはなく、お皿はいつも綺麗でした。それから私も師父に学び、食事を残さなくなりました。さらに私の子どもたちにも食物を粗末にしないよう、外食の時に食べきれなかった場合、残りを包んで家に持って帰るように教えました。

 食事の最中に師父は、シンガポールに説法に行かれることを教えてくださいました。私は朝鮮族のおばあちゃんで、言葉もあまり通じず他の学習者のように、師父の説法をしっかり理解できないので、毎回師父について講習会で説法を聞いていました。それでも少しずつしか理解できず、何回参加しても悟性が悪いと感じた為、シンガポールにも行きました。あれは1998年8月22日、23日のことで、2日にわたり説法を聞きました。

 それ以降、師父にお会いすることはありませんでした。16、17年が経ち、私は80歳近くなり、多くのことを忘れてしまいましたが、師父について講習会に参加し、直接説法を聞いた歳月はいつも心の奥で大切にしています。まさに師父がおっしゃったように「直接わたしの説法を聞き、功法伝授を受けられる人は、本当に……今のこの時間が最も喜ばしい時だったと、将来きっと分かることでしょう。もちろんわれわれは縁を重んじます。皆さんがここに坐っていることは、すべて縁によるものです」[3]。

 迫害が何年も続いていますが、辛い時、私は師父とともにいた日々を思い出します。早く「真・善・忍」に同化するよう自分を励まし、師父の負担を少しでも減らし、自分の宇宙にいる生命が少しでも楽しくあればと思っています。私はよく師父の写真の前で「師父、私はいかなる環境の中でも、内に向けて探すことをしっかりと覚えています」と誓っています。まさに師父がシンガポール法会での説法で説かれたように「この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです」[4] 。

注:

[1]李洪志師父の著作:『洪吟』「求正法門」

[2]李洪志師父の著作:『洪吟』「得法」

[3]李洪志師父の著作:『転法輪

[4]李洪志師父の著作:『シンガポール法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/31/318185.html )