輔導員を務める中で同修たちと一緒に向上する
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文/中国の大法弟子

明慧ネット2017年4月10日】

 尊敬なる師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は2004年に修煉を始めた台湾新竹県の大法弟子です。区の輔導員を務めてからの修煉体験をみんなと分かち合いたいと思います。

 一、区輔導員の責任を引き受ける

 修煉を始めてから、私はいろいろな真相を伝えるプロジェクトに参加したのですが、10数年来、真相電話チームを離れたことはありません。

 2015年4月、不安とプレッシャーを抱えながら私は区の輔導員の仕事を引き受けました。それから、私の修煉形式はとても大きく変わりました。経験がない私はいろいろな困難を経験したのですが、しかし心性の向上もとても速いものでした。

 もう1人の輔導員に補習の仕事の経験を伺うと、彼女は「どんなことでも、法理に照らして正しく処置するのです。また、心を広くして同修たちを包容し、親身になって同修のことを心に留めるのです」と話しました。私にはできるのか、私にはそれほどのキャパシティーがあるのかと考えて、私は黙々と師父にご加持を願いました。

 二、集団学法の頻度を増やす

 師父は『長春補導員法会での説法』で「皆さんにとって最も最も重要なことは、学習者が妨害されず、安定した環境を作り出すことです。これは皆さんの最大の責任です。在席している皆さんにとっても同じです。皆さんの輔導站、輔導点が妨害されることなく、学習者を率いて修煉することは、皆さんの最大の責任です」と説かれました。

 私たちの地区の集団学法は通常週一回です。しかし多くの同修は忙しいため、ふだん毎日の学法をしっかり続けられない状態にあります。そのため2015年5月から、私と数人の同修は新たな学法拠点を創立し、集団学法の頻度を増やそうと努力しました。その結果、毎週の月曜日から木曜日まで、毎日の夜も集団学法できるようになりました。今まで1年半経って、その効果が現れました。よく学法しに来る同修の向上は目に見えるものです。安定した学法の環境は本当にこれほど重要なのです。

 三、輔導員を務める中で自分の執着心を取り除く

 1、闘争心を除去する

 区輔導員の仕事を始めた当初、他の数人の輔導員は私に各学法拠点の現状、および同修たちの修煉状態を紹介してくれました。その中に良くできたこともあれば、不足もあります。どのように不足を補うか、私にとって大きな試練になりました。 

 ある日、新しい学法拠点を創立することについて皆さんと交流した時、私はつい焦って、話し方も怒りっぽくなりました。何回も交流したが相手は私の提案に同意してくれず、闘争心が生じました。結局、双方とも自分の考え方を固執する状態になりました。また他の事例もいくつかあったので、自分の修煉状態にきっと問題がある、と私は気づきました。

 ある日、座禅していた時、私の天目に地べたに多くの小石が散らばる灰色の森林が見えました。これはつまり私の世界ですか、冷たくて活気がありません。私は30分をかけて発正念して、自分の執着心を探しました。突然、「嫉悪如仇(悪を憎むこと 仇敵を憎むが如し)」という四字熟語が脳裏に浮びました。「嫉悪如仇」には「正義を守る、悪を治める」の意味が含まれており、常人にとって良い気質かもしれませんが、修煉者にとって他でもない一種の執着となります。引き続き内に向けて探すと、「嫉悪如仇」にきっと闘争心、相手を責める、強引さなどが付随すると分かりました。長い間、これらの執着心を私はそれほど重視していませんでしたが、今ついに1つ1つ暴露しました。

 それから、私は意識して闘争心を除去するように努力しました。同修と口論したくなる際に、私は一歩引いて弁解したい心を抑えて、相手の話をまず聞きます。常人に対しても同じく、相手は真相を聞き入れられない時、私はまず話を止めて、相手をとがめる心を除去して微笑みを見せます。

 今の私は微笑んでいる時が多くなって、怒る、落ち込む時が少なくなりました。ある日、娘に付き添って携帯電話を買った時、店員は娘に「お母さん、とても優しそうな人ですね」と言いました。私は少々驚きました。同修と一緒にVIPを訪問した時、VIPの方は「あなた、ずっと微笑んで、優しそうですね」と言ってくれました。  

 2、口を修める

 師父は『轉法輪』に「例えば、人と人の間にトラブルがあって、あなたが良いとか、彼が良くないとか、あなたは修煉が良くできたとか、彼は修煉が良くできていないとかして、これらのこと自体が摩擦です」と説かれました。

 同修たちの修煉状態を把握するため、私は他の輔導員に情況を尋ねる時もあります。出発点は良いものの、下手にすると、かげであれこれ噂話を取沙汰することになりがちです。ある日、ある輔導員と交流した後、帰ってから、今日の話の一部は実は話すべきではないと反省して、口を修めるように注意するショートメッセージを彼女に送りました。意外にも次回会った時、彼女は「私に口を修めようと注意したのですが、前回の事について、あなたこそ口を修めるべきです」と私にぶつかりました。そうですね、その日の会話に私も口を修めていないのは事実です。どうして彼女の口を修めていないことだけが目に入って、自分も同じことをやったのに気づかないのか、そう思ったら恥ずかしくなりました。その後、口を修めることに私は努力しました。

 同修Aさんが背後で私に対する不満を言いふらしていることを知った時、最初はとても釈明しに行きたかったのですが機会がなく、いつも気がかりになっていました。冷静に考えると、私とAさんの間にトラブルと言えるものはなくて、Aさんは正念が強くて大法のことをしっかりやっています。そうだ、これはきっと旧勢力の手段で、私たちの間に隔たりを作ろうとしています。私は釈明したい気持ち、Aさんを責める心を抑えて、『洪吟三・誰が是誰が非』に書かれた「正しきは彼 過ちは私』を暗唱して、私はしっかり修めれば不快はきっと解消できると思いました。

 3、同修の修煉状態は鏡のように私自身の問題を照らす

 区内に正しくない状態が現れる時、例えば某同修を崇拝する、ネズミ講をやる、学法拠点で商売する、などなどが現れたら、初期のころ私はとても焦って、どのように同修たちと交流するかが分かりませんでした。『各地での説法九・二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』に師父が説かれた「皆さんは自分のどこかが間違ったのではないかと考えていません。実は自分が本当に分かるようになり、正しく行なったら、これらの人、これらの現象はなくなり、なぜなら、大法弟子の中にいかなる偶然な事もなく、これは許されないことでもあり、誰もこのように行なう勇気はないからです」を読んだら私は悟りました。

 やはりまず内に向けて探すことが必要ですね。では、私には同修を崇拝する心理があったりしますか? 考えてみたら、答えは「あります」。修煉状態が良い同修の言ったことは私は正しいと思って、修煉状態が良くないと思う同修が交流すると、彼の話を私はあまり聞きたくありません。学法拠点で商売する或いは同修の間でネズミ講をすることはきっと正しくなくないことですが、知っていてもトラブルを避けるために私ははっきりと止める勇気がなくて、その現象を長く存続させました。私もその悪いことを助長したと同然ではありませんか?

 輔導員として私は同修たちの向上を助力するのではなくて、同修たちと一緒に向上するのだ、と私はやっと悟りました。区輔導員になって半年しか経っていませんが、修煉の真義は何か、無条件に内に向けて探すことは何かを、半年の間に私は悟りました。

 4、昔の修煉者を呼び戻す

 『二〇一五年米国西部法会での説法』にこのような質疑と解答があります。

弟子:大陸の各地区の協調人は現在、昔の学習者を呼び戻すことに力を入れるべきでしょうか? 精進していない学習者のために法を勉強する拠点を作り、彼らが法を多く勉強し、表に出て真相を伝え人を救うことができるようにすべきです。

師父:これはすべきことです。やはり行うべきです。しかし、安全に気をつけてください。

 昔の同修を呼び戻すことは区輔導員としての重大な責任だと私は思っています。身辺の同修の中に長く学法や煉功に来ていない人がいないか、熱心に彼らとコンタクトを取って、集団の修煉環境に戻るように彼らを励ませよう、と私はよく交流の時に皆さんに話しています。

 私たちの地区に有名大学が2つあって、科学園区と工業研究院もあるので、区内の同修に大学教師や青年学生、研究員などエリート知識人がとても多いです。彼らはふだん仕事或いは学業が忙しく、学法と煉功を疎かにしがちですが、一方、彼らはすでに主流社会に身を置いているので、彼らの同僚、友達、先生などはちょうど神韻の視聴者に当てはまります。そのため、私は彼らの近くに学法拠点を創立して、彼らは仕事が終わったら帰宅する前に学法拠点で一時間半の学法ができるようにしました。また、週に一回交流も増やしました。

 今、私たちの地区の同修の皆さんの修煉状態はだんだん安定してきて、集団学法に参加する人も多くなって、江沢民告発や神韻宣伝に参加する人も増えています。師父のご期待に応えられるまでまだ差があるので、私は同修の皆さんと一緒に執着を放下し、着実に向上し、より多くの衆生救おうと思っています。

(2015年台湾修煉体験交流会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/17/320582.html)
 
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