文/西洋人大法弟子
【明慧日本2016年6月17日】
師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
(一)大法を得て、輔導員になる
私は西洋人法輪功修煉者及び協調人として、19年間の修煉の心得を皆さんと分かち合いたいと思います。
1997年春、シリコンバレーのハイテク企業に勤めていた私は同僚と会話した際、「自分が追求しているのは仕事の発展ではなく、精神的昇華だ」と話しました。その後私は、同僚から法輪大法を紹介され、数日後に英語版の『轉法輪』を渡されました。
コロンビアブルーの表紙には異なるサイズの法輪の図形がたくさんあり、表紙を開くと、橙色の袈裟を身にまとわれた師父の写真がありました。これは特別なものだと感じましたが、その後、自分が宇宙の大法に出会うことになるとは思いもよりませんでした!
本を数回通読した後、これは私がずっと探し求めていた修煉の道だと気づき、修煉したいと伝えました。同僚はもう1人の同修を私に紹介し、一緒に五式の功法を教えてくれました。当時の私は想像もしなかったのですが、数年後、私たち3人はカリフォルニア州北部地区の佛学会の協調人になりました。師父は巧妙な按排をして下さったのです。
師父の米国での説法の1周年を祝うため、法輪功修煉者たちはカリフォルニア州のサニーベールのオルテガパークでグループ煉功をすることになり、私は同僚に誘われて、週末のグループ活動に参加しました。その公園は師父が説法された場所だったので、皆はそこが特殊な場所だと思っているようでした。そこで、私は多くの修煉者から歓迎の声を掛けられました。日暮れごろ、私たちはスタンフォード大学で小さな法会を開きました。全ての発言が中国語だったため、聞き取れない私はじっと周辺を観察しましたが、修煉者に対して良い印象を受けプラスのエネルギーを感じたので、法輪大法を修煉しようと決めました。帰宅後、私はその他の修煉関係の書籍を全部処分しました。
数日後、師父は私の体を浄化され始めました。私は興奮して自分の経験を同僚に伝え、彼女の助言の下で私たちは英語学法グループを作りました。スタンフォード大学の院生がキャンパス内に部屋を用意してくれたので、私たちは毎週金曜日にそこで学法することにしました。ほとんどの場合、学法に参加するのは私と数人の中国人同修でした。2、3カ月後、私は西洋人同修の輔導員になりました。当時は私自身も新しい修煉者なので、輔導員を引き受けるのは少し恥ずかしく思いましたが、師父が按排して下さった修煉の道だと思い、責任を履行することにしました。
その頃の修煉は比較的に簡単でした。私たちは毎朝煉功し、昼間は常人の仕事をこなし、夜は一緒に学法して、週末になると違う公園で煉功したり、大法を広めたりしました。輔導員をどのように務めればよいかよく分からない私は、帰宅してから『轉法輪』を読み、寝る前に『精進要旨』を読むことにし、師父の経文から多くの智慧を頂きました。
その後の数カ月間、数人の西洋人が功法を学びに来ましたが、様々な原因で去っていきました。最後に、1人だけ、非常に熱心な西洋人がいて、私は彼が大法を得ることを助けようと決心しました。彼は出勤が早いため、夜しか私たちと一緒に煉功できませんでした。そのため、私たちは夜の学法の時間を週に1、2回、8時から10時の煉功に変更しました。西洋人は独特な文化背景と克服すべき観念があるので、安定した学法グループに参加することによって母語で自分の考えを分かち合うことができるのです。
(二)大法をまもり、真相を伝える
1999年7月20日以後、中国共産党は法輪功修煉者に対し大規模な迫害を始めました。この事は私にとって意外でした。修煉者がどうして政府にとっての脅威になるのでしょうか? 理由はともあれ、私たちはこの自由社会で声を出して、善良な市民からの支持を得るべきだと考えました。多くの修煉者はワシントン特区に行って、米国政府に対し事実を説明しました。
7月24日、サンノゼでの大型法会が予定通り開かれた後、一部の修煉者がワシントンに直行しようとしていることを聞き、私は少し悩みました。なぜなら、母が5年ぶりにシカゴに住む私を訪ねてきて、着いたばかりだったのです。これは私の家族への情の執着に対する試練だと思いました。数人の修煉者と交流した後、私は大法をまもるべきだと思い、数時間後のワシントン行きのエアーチケットを購入しました。
ワシントンDCに到着した後、私たちは同じホテルに泊まる他の協調人と合流しました。彼らは私に米国西部のいくつかの州の上院議員、下院議員を訪問できるよう手配してほしいと言いました。リーダーシップのない私にとって、これが協調人としての自信をつけるチャンスでした。私たちは本能的に大法から恩恵を受けたことを感じ、交流を通じて法理に対する認識も深まったので、大法のために正義の発言をすべきだと思いました。
ワシントンから帰宅後、私たちは早速記者会見を開き、駐サンフランシスコ中国共産党領事館の前で抗議活動を行い、友人や家族、同僚たちに大法が迫害を受けた事実を伝えました。多くの市民に知らせることができるよう、ある修煉者は法輪大法説明会を行う事を提案し、北カリフォルニア州の各都市で説明会の手伝いをしてくれ、新聞広告も出しました。私の仕事は講演と功法を教えることでした。米国民は中国共産党による平和団体へのこのような迫害を理解できず、私たちの説明を聞き、真相を知ってから真摯に関心を寄せ、祝福してくれました。
数カ月後、私たちはカリフォルニア州を含む周辺500マイル圏内の各大都市で法輪大法説明会を行うことができました。これは衆生を救う非常に良い機会でした。私自身も公衆の場での講演に対する恐怖を取り除き、衆生に対する慈悲心を修めることができました。1999年11月、シアトルのWTOの抗議活動に参加するため、一部の佛学会の主要協調人が西海岸に来ました。私は米国西部法輪大法学会に誘われ、大法活動の協調の仕事を依頼されました。この役をどう務めれば良いか分かりませんでしたが、師父による修煉の按排だと思い、引き受けました。
(三)困難を克服し、メディアに加わる
2000年、私たちは米国西部の他の地区との協調を取るため、電話会議を通じて互いにそれぞれの地区の情報交換を行いました。もっとも重要なのは、修煉者全員がどこにいても法を正す進展について行き、衆生を救い、誓いを果たすことです。西部地区において、修煉者は比較的分散していて、一部の地区では数人の修煉者しかおらず、彼らに良い修煉環境を整えてあげることが比較的重要だと思いました。
協調人として、更に自分の力を発揮していこうと思った矢先、非常に大きな魔難に遭いました。法を実証するために北京に行った修煉者たちは無事釈放され、アメリカに帰ってきました。しかし、彼らは中国の刑務所で旧勢力による迫害を受け、一種の身体的業力を持って帰りました。私の修煉に漏れがあったのでしょうか、その種の業力が私の体にも移ってきました。その後の数カ月間、その魔難がますます大きくなり、しまいには、私は会社の仕事をやめざるを得ませんでした。
当時、師父から発正念の説法がまだなく、私自身もどうすべきか分かりませんでした。修煉者たちから離れ、ひたすら魔難に耐え、いずれは業力が消され、全ては良くなると思っていました。これは非常に消極的な方法で、しかも長引いてしまいました。たとえ発正念の方法がなくても、学法や煉功を通じて邪悪を滅することができたはずですが、私は精進せず、状況も一向に好転しませんでした。その数カ月のうちに経験した孤独と苦痛は耐えがたいもので、修煉者として精進していく自信を失いました。唯一幸いなことは、毎日、私は明慧ネットの文章を満遍なく読み、中国で迫害を受けている同修達にますます近づいていることを実感しました。
2001年春、師父は『カナダ法会での説法』の中で発正念の方法を教えられました。私は同修たちの中国領事館前での発正念活動に加わりました。徐々に、私は消極的に耐えることから積極的に邪悪を滅するように変わっていきました。私は修煉者たちと再び接し、健康も取り戻しました。しかし、以前の自分と違って、内心に空洞感を覚え、修煉の厳粛性を認識しました。
その後の数年間、私の生活にはいくつかの大きな変化がありました。結婚、進学、そして多くの精力を常人の仕事に投じるようになりました。当時、地元の修煉者たちはサンフランシスコ版『大紀元時報』の英語版を作ることを決めました。協調人から手伝ってほしいと言われ、私はその仕事を引き受け、総編集者になりました。以前は、中国人修煉者たちが先頭に立って各プロジェクトを行ってきました。今は、西洋人修煉者がプロジェクトを通じて、衆生を救い、その過程で修煉し成熟していくことができるようになりました。私はこの機会を大切に思い、その後7年半にわたり英文大紀元の編集を担ってきました。
修煉者の90パーセント以上が中国人という環境の中で、西洋人修煉者としての自分は部外者だと感じる時がたびたびあって、なかなか法を正す進展について行くのが難しかったのです。しかし、英語版『大紀元時報』の編集に加わってから正法の進展に一歩ずつ着いて行けるようになったと実感しました。読者に期待される良い週報を作るには、常人の生活で怠けることは許されなかったのです。
(四)再び協調人になる
2011年、主要協調人が私たちの地区の法輪大法学会を改編しました。新しい協調グループの本部がサンフランシスコに置かれ、主要な要務は北カリフォルニア州の修煉環境の改善でした。私はメンバーとして、再び協調の仕事をやり始めました。
師父のご指摘を受け、私たちはサンフランシスコがわが地区の真相伝えの焦点だと分かりました。そこで、私たちはサンフランシスコで新しい英語学法グループを立ち上げました。一部の修煉者は英語版『大紀元時報』を応援するために東海岸から引っ越してきました。その年の夏、私たちは小規模の英語による法会を開きました。法会の協調人として、私は英語の話せる修煉者全員に交流文章を書くように勧め、その後すべての交流文章をチェックして、中国語に訳すように手配しました。その日は、西洋人修煉者にとって特別な日でした。後に、多くの中国人修煉者は「西洋人修煉者たちの真摯で率直な交流に感動を受けた」と言ってくれました。
数カ月間考えた後、私は大紀元の仕事を辞めて、協調の仕事に専念することを決めました。これは非常に難しい決断でした。メディアの一員として、英語を母語とする編集者が足りない中で、私はその仕事をとても大切に思っていました。しかし、編集長と協調人の二つの仕事を一緒にやり続ける限り、どちらも疎かになってしまいそうな気がしました。私は辞職願を提出し、西洋人修煉者たちの修煉環境の改善に取り込みました。
過去数年の協調の仕事の中で、私たちはサンフランシスコで子供弟子の法会を開き、カリフォルニア州の飛天芸術学院の学生たちと他の地方の若い弟子たちを招きました。再び小規模法会の協調人として、私は多くの修煉体験文章に触れ、全ての手配を訳す機会に恵まれました。多くの修煉文章のデーマは子供弟子たちがゲーム遊びに夢中になっていることに関連していました。これは私たち親にとっての戒めであり、真面目に取り組みべき問題だと気付かせてくれました。
2年の間、私たちは多くの精力を毎週土曜日のグループ学法の運営に集中しました。学法後、各協調人または各プロジェクトの責任者たちが順番で司会を務めました。昨年のある日、主要協調人が突然急用で離れなければならないとき、マイクを私に渡しました。以前、グループ学法の司会を務めたことがありますが、準備なしの司会は初めてでした。200人ほどの前に立って、私は交流したい人がいるか尋ねました。室内は静まり返って、誰も発言しようとしませんでした。私はマイクを持って、心を開いて自分の最大の問題を皆と分かち合うことにしました。長い間、私は色欲に対する執着を放下できず、以前、皆と交流しようと考えましたが、学会の名誉を破壊してしまうのではないか、そして同修からの信頼を失ってしまうのではないかと心配し、口にしませんでした。しかし、マイクを持った瞬間、私は全ての心の障害を排除し、心から打ち明けました。私たちには純粋な交流の環境があることを幸いだと思いました。そこで私たちは助け合い、共に関を乗り越えることができるのです。
1年前、私たちはサンノゼでもう一つの学法グループを立ち上げました。サンノゼはサンフランシスコから60マイル離れた所にあります。サンノゼの学法グループはサンフランシスコでの学法に定期的に来られない南部の同修に良い交流の環境を提供することができました。私は新しい学法グループの責任者となり、新たな自分を向上させるチャンスを頂き、更に多くの協調の経験を積む機会になりました。私は学法場所を探し、定時に家賃を支払い、できるだけ家主と良い関係を保つよう努めました。そのほか、毎週1人のグループ交流の司会者を配分し、自ら司会をしようとしない同修を後押ししました。本来、このような仕事は私の性格には合わないのですが、特に中国人同修に任務を与えました。以前は逆に、西洋人修煉者は常に中国人同修から何をすべきかを教えてもらいました。徐々に、私はこの新しい役に慣れてきました。全体的に言えば、サンノゼの学法グループは地区の修煉者たちに良い影響を与えていると思います。
協調人として、私は常に師父の教えを銘記し、自分の言動の指針とし、責任ある人間になるよう努めています。
師父は『大圓満法』「付録三」の中でこうおっしゃっています。「煉功点で自分を律するのに厳しく、人を遇するのに緩やかである。心性を守り、助け合い友愛し合う」
同修の皆さんが先史の誓いを果たすことができるよう協力しましょう。更に多くの縁のある衆生を救いましょう。
師父に感謝致します!
同修の皆さんに感謝します!
(二〇一六年ニューヨーク法会での発表原稿)