法輪功は宗教か
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文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2020年10月11日】法輪功は宗教であるかについて、同修の間も、外部の人間も時々議論しており意見は様々です。ここで、私は自分の見解を申し上げたいと思います。

 宗教に対する定義は時間、場合、言語、社会環境によって変わるものです。人々が「宗教」と呼ぶもの、例えば佛教、道教、キリスト教、カトリックなどは、通常、英語では「宗教(religion)」と訳されます。混乱を避けるために、このような宗教を英語ではまた「組織化された宗教(Organized religion)」とも呼んでいます。実際に、上記のような表面の形や組織形態を重視する宗教(組織化された宗教)の他にも、寺院に入ることを条件にせず、住職や牧師のような役職も重視しない、ただ心性を高めて法理を悟るなど根本的なことを重視する修行形態も存在しています。このような修行形態も人間社会の法律では「宗教」に分類されています。

 もちろん、すべての正しい宗教の本来の意図と方法は、人々に心を修めて返本帰真させることです。しかし、時代の流れや変化に伴い、人々は形、名利、学問などにこだわるようになり、修行の本質と効果を重視しなくなりました。また、宗教団体であれば、社会の中で法律上の手続きもしなければならないので、一つの修行方法は宗教だと定義するかどうかは、ますます無視できなくなりました。

 欧米では「政教分離」がオーソドックスな原則です。つまり、政府は宗教団体を支持したり、反対したり、参加したり、干渉したりしないし、宗教団体も政府を支持したり、反対したり、参加したり、干渉したりせず、政府の機能を代理もしません。「神のものは神に カエサルのものはカエサルに」というイエスの言葉の言った通り、神は世俗のことに干渉せず、その逆も成立する、という意味です。

 英語の「religion」という言葉の意味合いは非常に広く、宗教であるかどうかは、政府の認可を受ける必要がなく、自分が宗教だと自称すれば、それではあなたは宗教になってよいのです。政教分離のため、政府には、誰が宗教で誰が宗教でないか、あるいは誰が良い宗教で誰が悪い宗教であるかを決める権限がありません。もちろん、特定の事件を扱う際には法廷が法廷独自の立場を持つこともあり得ます。

 では、宗教(religion)とは何かをどうやって判断するのでしょうか?  西洋社会では、次のような基準で測るのが一般的で、それを満たしていれば宗教(religion)に該当します。

 1.道徳や心性の規範があること

 2.信仰の中で、具体的なやり方についての指示があること

 3.すべての教義が含まれる、定期的に読まれる本があること

 4.神を崇拝する、または同様の信仰を持つこと。キリスト教ではヤハウェを崇拝することが天国へつなぐ道であると信じると同じように、修行者は自分の修行で悟りを開く、救われることへつなぐ道だと信じること

 5.神の存在を信じ、神聖な創世主の存在を信じること

 6.異次元の空間の存在を信じること

 7.修行者はすべての戒律(法理)を心から信じていること

 この基準に基づくと、法輪功は西洋のいわゆる宗教の範疇に属します。法輪功の修煉では心性に対して厳格な基準があり、それは『轉法輪』という本に明記されています。法輪功学習者は佛、道、神の存在を信じ、他の空間の存在も信じています。学習者は継続的に法を学び、大法の原則に従い自分の心性を向上させ、最終的に圓満成就を遂げて、すなわち最後に佛、道、または神になります。

 中国語では、特に無神論的な中国共産党政権下の中国本土では、宗教という言葉は、西洋でいう「religion」よりはるかに狭い範囲を指しています。「宗教」という言葉は中国の伝統的な語彙ではなく、「派出所」、「舶来品」、「広告」などと同じように、19世紀に西洋の影響を受けて日本語に作られた言葉です。その後、中国に導入され、中国語にとっては一種の輸入品です。佛教と道教は何千年も前から中国に存在しています。もし19世紀以前の佛教や道教の信徒に「あなたは宗教の一員か」と尋ねたら、きっと相手は困惑します。彼(彼女)は自分のことを和尚、尼僧、方丈、禅師、道士、出家した人などと呼びますが、「宗教の一員である」という意識を持っていません。一方、現在中国の社会環境と現代中国語において「宗教」という言葉は、制度化され、組織化され、形式化された宗教を指しています。中国当局が公式に認めている宗教は5種類しかありません。

 中国共産党は世界中の他の共産党と同じように無神論者であり、宗教を完全に否定しています。宗教に対する共産党の基本的な見解は、「階級社会において、宗教は、搾取階級が人々の精神を麻痺させるための道具である。宗教は科学的社会主義的世界観と対立的な存在である。宗教にまつわる問題の解決は、社会主義闘争というイデオロギーに従属すべきである。共産党員と大衆に無神論を普及すべき」などがあります。「宗教は人々を麻痺するためのアヘンである」(マルクスの「Sie ist das Opium des Volks」と、レーニンの「Религия есть опиум народа」より)というフレーズは、中国共産党のプロパガンダ、メディア、学校の教科書で頻繁に引用されるものです。

 法輪大法は正確にいえば修煉の一つの方法であり、他の宗教法門もみな修煉の方法・形式です。世界各地の言語、社会環境、文化的背景の違いが存在するため、法輪功は宗教若しくはreligionであるかどうかについても、それぞれの見方があります。私の見解では、法輪功は無神論者である中国共産党が認めた5種類の宗教の中の一つではなく、現代中国語で解釈している「制度化され、組織化され、形式化された」宗教にも属しません。一方、信仰の自由がある西洋社会では、「宗教(religion)」の定義によれば、法輪功はちょうど法律に守られる宗教だといえます。実は、現代中国語で「制度化され、組織化され、形式化された」を連想させる「宗教」は、「制度化された宗教(institutional religion)」または「組織化された宗教(organized religion)」と英訳するほうがもっと厳密ではないかと思います。

 この問題については、2006年の『ロサンゼルス市法会での説法』に、師父はすでに明確に説かれました。

 「一方、西洋社会では、政治とは、宗教範疇に属さず、個人的な行為でもない社会的活動を指しています。ですから、『法輪功が宗教であるかどうか』について、西洋社会は、法輪功が社会での政治活動に属していない社会活動なので、宗教であると結論付けています。法輪功に信仰があるので、宗教だと思っているのです。

 ここで、ついでに皆さんにお話しますが、今後、私たちが宗教かどうかについて、普通の常人に対して答える必要はなく、これから答えなくて良いのです。人間がどう思っているのかは、好きにさせればよいのです。はっきりと聞こえましたか? 中国という社会では、宗教かどうかについて非常に明確な概念があり、宗教の場合、お寺や礼拝があり、入門するときの宗教形式が必要で、受戒し、洗礼を受けるのです。これは非常にはっきりとしており、このような人はまさに宗教の信者であり、宗教活動を行なっているのです。これらの儀式がなければ、宗教にはならないのです。これは西洋社会の概念と完全に異なっています。ですから、西洋社会で、普通の人から宗教かどうかを聞かれたとき、答える必要はありません。そんなに真剣に対処する必要もありません。もし、政府、社会団体、行政部門、議員から宗教だと言われたら、私たちは宗教ではないと言う必要はありません。もし、法律に関わる問題であれば、宗教の名義と条文で対処すれば良いのです。ですから、こういう場合は、宗教だと言ってもよいのです。特に法律に関わる問題の場合、このように対処してよいのです。皆さん、分かったのでしょうか? これは東洋と西洋の観念上の違いであり、私が説いた法に反していません。私はすでに『精進要旨』の中で『私たちは宗教ではありませんが、常人は私たちを宗教とみなすのです』と話したことがあります。このことについて、皆さんははっきりと認識すべきです」

 2018年の新経文『法輪大法の常人社会における定義の問題について』に、師父は「どの宗教もその師が伝道していた初期のころ、自分自身を宗教だと言っていませんでした。しかし、常人社会で一律に宗教と分類されています。したがって、人類社会で常人の法律に従うために、宗教として登録し、常人の定義を受け入れて宗教団体となっても良いのです」と説かれました。

 「法輪功は宗教であるかどうか」について、同修と常人の見解はそれぞれあるので、専門知識の面と法輪大法の法理の面、両方から私は自分の見解を述べました。今後、同修が実務的な対応をする時に、役に立てれば幸甚です。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/3/关于法轮功是不是宗教的认识-373090.html)
 
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