現代の「三大魔物」に用心しよう(二)
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 【明慧日本2020年10月12日】(前文より続く)

 四、修煉の機縁を大切にする

 私たちにとって、正法修煉の機縁は一度しかなく、ほんの数十年の時間しかないかもしれません。それを掴めた人には戻るチャンスがありますが、掴めなかった人は永遠にここに残り、破滅を迎えることになるかもしれません。師父はこのようにおっしゃっています。「人間は自分のせいで迷いの中に堕ち、消滅されるべきものでした。元へ戻る機会を一度与えられて、戻ることができれば戻りますが、戻れなければ、引き続き輪廻するか、消滅されるしかありません」 [4]

 このたった一度しかない機縁の中で、師父は私たちがこの機縁を大切にし、向上することを切に望まれていますが、旧勢力はありとあらゆる手段を使って、私たちを落とそうとしています。機縁を大切にせずに精進しなければ、旧勢力が手配した道を辿ることになり、自分自身だけでなく、衆生や世界をも滅ぼしてしまうことになります。

 風雨の中を正念を強くして突破してきた同修なのに、携帯電話を前にしてどうしようもなくはまってしまっています。これも一種の茹でガエルのような迫害です(訳注:カエルは冷たい水に入れて徐々に水温を上げていくと、温度の変化に気づかず、やがて暑い湯の中で死んでいく)。遊び心で滅ぼされてしまう修煉者の数は、迫害によって命を奪われた修煉者の数より、はるかに多いのです。ただ、それらはより一層隠れていて、気づきにくいだけです。目に見えない殺人鬼である電子製品は、修煉の道のりにある障害物であり、人々の正念を狂わせる元凶でもあります。

 10本の指で水をすくおうとする際に、すべての指の間から水が漏れていくならば、手には何も残りません。修煉において1分1分の時間を無駄にしてしまえば、最後は何も成し遂げずに終わってしまうのです。

 「皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します」 [4]  。これが『轉法輪』の最後の一文で、師父の気掛りの表れでもあるのです。旧勢力が電子製品を用いて、狂ったように世界中を席巻した意図は何でしょうか? これらは他でもなく、世間に魔を送り込んで混乱させ、我々に自我を失わせて時間を無駄にし、修煉者をダメにし、師父が法を正されることを破壊するのです。

 スマホを手に取って遊ぼうとするとき、テレビやパソコンの前に座りくつろごうとするとき、師父の法を暗唱してみてはいかがでしょうか。「機縁は一度しかなく、放下できない夢幻が過ぎ去ってから、初めて何を失ったかを知るのです」 [5]  。「その念を固く守らなければ、一生、何も得られないのです。いつまた機縁が結ばれるか分からず、難しいことです!」 [6]  。機縁が得難いことを思い起こすことができれば、スマホに対する未練も少なくなると思います。

 昔から言い伝えられていたことですが、「業は勤むるに精しくて、嬉しむるに荒み(意訳:学問は努力すればするほど精通するが、怠けて遊び半分にやっているとだめになってしまう)。勉強は農業と同じく、熱心に耕せば豊作を迎える」。修煉においても、時間をかけて徹底的に法を学び、初めて法を理解することができ、時間と労力をかけて真心から衆生を救い、初めて法を正す師に手伝うことになるのです。なすべきことをせずに電子機器にはまることは、自分自身に対して無責任な人なのです。すべての時間を修煉に投じ、一寸の光陰をも惜しみ、毎回の向上の機会を逃さなければ、初めて修煉の機縁を大切にしていると言えます。

 五、結び

 古代には朝廷に災いをもたらした妲己(だっき ※注)がおり、現代には国全体を混乱させる偽の気功があり、今日では全世界を変えてしまう携帯電話があります。どれもよりひどくて、よりはびこっていて、より致命的なのは一目瞭然です。師父はこのようにおっしゃっています。「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかも知れないのです。ですから心を必ず正しくもたなければなりません」 [4]

 大量の魔が横行しているこの時代において、中国共産党による迫害を前にして冷静に対処できるのに、電子ゲームの前では無力になって自己コントロールが効かなくなり、魔に支配されていても気づかずにいる同修がいます。修煉は万人に阻まれるより、自分自身から降参する方が一番恐ろしいものです。心が少しでも歪んでしまえば、危険な目に遭うことになります。

 貪欲や執着、遊び心が出て来た瞬間にそれをキャッチして取り除き、初めてこの三大魔物による妨害から逃れ、理性を保って正しい道を歩むことができます。手放したくない、離れたくないなどの念はすべて、魔が化けた妨害であり、真の自分の正念ではないことを知っておくべきです。主意識を強めて電子製品などから離れて初めて、それがない生活がいかに自由で快適で自然であり、私たちはいかに気楽で理性的になれるかを経験することができます。魔に支配されていない自分が真の自分であり、そのとき初めて法理を正しく悟り、自分の本性を見出し、正念を持って衆生を救うことができるのです。

 考えてみてください。神や佛はテレビを見たり、ゲームをしたり、スマホ遊びにはまって抜け出せなくなってしまうことがあり得るのでしょうか? 神や佛は衆生や自分の世界を守る存在であり、魔に支配されて正念や理性、責任感を失ってしまうことはあり得ません。

 昔の修煉者は妨害を受けずに修煉に集中するために、わざわざ自分の耳を聞こえなくしたり、目を見えなくしたりしました。師父はこのようにおっしゃっています。「複雑な環境は、わたしは逆に良いことだと思います。複雑であればあるほど、その中から高人が現われてくるのです。こういうところから抜け出せるようでしたら、その人の修煉は最もしっかりしたものといえます」 [4]  。現在の環境と古代の環境はどれがより複雑で、どれがより魔性化されていて、どれがより変異してるのでしょう? 答えは明らかです。大量の魔が横行する時代において、自分を厳しく律して三つのことをしっかり行うことがもっとも貴重で評価されることであり、自然とここから抜け出すことができるのです。

 師父はこのようにおっしゃっています。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」 [7]  。普段から法をよく学んだり暗記したりすれば、欲求が少なくなります。最近、私は顔を洗うときや歩くとき、データ入力をするときにもよく経文を暗唱します。そうすると、法理が絶えず見えてきます。佛法は宇宙の聖典であり、携帯電話はガラクタのおもちゃであり、一方は天国ではあり、もう一方は地獄です。少しでも道を間違えれば、すべては取り返しのつかないことになります。

 今の私は、学法は襟を正して本を読むことに留まらず、日常生活のあらゆる時間にできることだと理解しています。車に乗っているときや家事をしているときの法の暗記も、立派な学法です。

 生命は人間になるまで何千回もの転生を経なければならず、何億年も待ってやっと法を正す時期に出会えたのです。やっと人間として生まれて、もしここで、私たちがゴミに等しい電子玩具にはまり、万古の機縁を忘れ、神聖な誓いを忘れてしまえば、衆生の期待に応えられないだけでなく、人間として生まれた意義もなくなり、これ以上に嘆かわしいことはないでしょう。

 スマホをどうしても手放したくない時、どうか、師父のこのお言葉を思い出して下さい。「機縁は一度しかなく、放下できない夢幻が過ぎ去ってから、初めて何を失ったかを知るのです」 [5]

 ※注:妲己(だっき)とは、殷王朝末期の紀元前11世紀頃の帝辛・紂王の妃。帝辛に寵愛され、末喜などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。

 (完) 

 注:
 [4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「退職した後に修煉する」
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「堅定」
 [7] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/5/18/366655.html)
 
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