観念を変え、新唐人テレビ局で修煉する機会を大切に
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文/ニューヨークの大法弟子

 【明慧日本2020年10月20日】私は新唐人テレビ局に勤める修煉者で、最近の修煉体験を皆さんと交流したいと思います。

 観念を変えて、 氷山を溶かす

 同修Aさんは、突然私を疎外しました。席を移動し、挨拶も無視して、仕事の説明をしてくる時に私がいないかのようにパソコンだけを凝視していました。それまではとても仲が良く、仕事上のパートナーでもあり、毎日のやり取りも多かったのです。

 悔しい思いをしてコミュニケーションを取ろうとすると、Aさんは「別に、いいのよ」と言って、あまり言葉を交わそうとせず、毎日暗い顔をしていました。その後よく遅刻したり、休んだり、とうとう3~4日無断欠勤までしました。私とAさんの間には氷山を挟んでいるような感じで、とても嫌な気分になりました。今までの人生で、こんなことに出会ったことはなく、冷戦はとても心を傷つけました。

 振り返ってみると、実は最初に彼女を疎外していたのは私で、それは彼女が自分の立場を守るために私に嘘をついていたと知った後のことでした。人間、特に修煉者は嘘をついてはいけないという頑固な考えを私は持っています。常人ならまだ許せますが、修煉者だったら許せないと思っていました。

 そのため、Aさんに偏見を持つようになりました。自分の気持ちだけを考えて、相手の立場に立って彼女を助けようとせず、仕事以外ではあまり話さなくなりました。Aさんはもともと敏感な人で、確かに私の冷たさを感じていました。

 もう一つ私がしがみついていた観念とは、「真」に対する理解です。修煉者として「真」を実行するには、自分が思ったことをその通りに口に出して言えば良いと思っていました。表面上ではそれは間違っていませんが、しかし実際には、それは大法の基準の「真」に本当に符合しているのでしょうか。

 早朝の出勤途中、星空を見上げました。無数の星に全く同じものは二つとなく、地面に落ちた葉っぱも、全く同じものは二つとないと思いました。それぞれ違う生物が宇宙を繁栄させていて、他人に自分と同じであることを求めること自体が不条理です。周囲と仲良くするためには、相手を理解し寛容でなければならず、真・善・忍を実行しなければなりません。

 私には善意が足りないので、他人を理解できるほどの優しさを持つことができず、葛藤を解決する力がありません。

 内心から考えを変えてから、私は穏やかになりました。休暇から帰ってきたAさんをお茶に誘ってみました。私たちは2時間以上も話をして、彼女の思うことを真面目に聞きました。彼女を傷つけたところがあれば許してほしい、毎日楽しく過ごしてほしいと言い、私の欠点を指摘してほしいと言いました。数カ月ぶりに、2人は楽しく話したり笑ったりして、私の心を重く圧迫していた氷山が一瞬にして溶けました。自分の欠点を気づかせてくれたAさんに心から感謝しています。これからは謙虚さを忘れず、心性を高めていこうと思っています。

 「苦しみ」と「疲れ」を超越する

 8月、主要な編集者1人が退職しました。9月中旬に後任が見つかりましたが、一から教える必要がありました。8月にはチーム全体でその編集者の仕事を分担して行ない、9月には時間を作って新人のトレーニングをしました。その間にまた1人が舞踊大会の報道をするために不在になり、もう1人も法会に参加するために不在になったので、空いた穴はチーム全員で埋めなければなりません。おまけに編集、演出のポジションに新人が入って、番組の質を保つために新人をフォローしなければなりません。この2カ月で2年分の仕事をしたようで、たいへん長くて疲れました。

 限界に達したような気がしました。同修に「どうだい?」と心配された時に私はただ苦笑いをして「疲れている」と答えました。夫は「土曜日のことを考えると恐ろしい気分になる」と言っていました。土曜日が一番忙しい日で、日中は番組を作って、人手不足の時には自分が編集をしていました。夕方帰宅すると、すぐにオンラインで打ち合わせをして、よく夜中までします。日曜日は、1週間溜まった家事を片付けなければなりません。

 本当に辛くて疲れます。アラームを使わずに自然に目が覚めるまでぐっすり眠ることは私にとって最大のご褒美であり、遠くて贅沢な夢になっています。

 ある土曜日、もう我慢できないほど疲れて、口の中の唾液も苦くなり、何も話したくありません。歯を食いしばって昼間の番組を終え、夜の定例会に出られないと休みを申し出ました。ベッドに横たわっていると、頭が爆裂しそうになり、限界までの疲労感は言葉で言い表せない感じでした。眠いのですが、寝つかれず、師父の説法録音を聞くことにしました。

 師父は「小坊主は苦しみに耐えれば耐えるほど功を開きやすいのですが、大和尚は楽をすればするほど功を開きにくくなります。ここに業力転化の問題があります。小坊主はつね日ごろ苦労しているので、業を滅することが速い」[1]と説かれました。

 師父はまた「その修煉過程は即ち業を消すことで、つまり苦を嘗めることです。あなたが苦を嘗めなければその業は消去することができません。ですから身体の苦痛は必ずしも悪い事と限りません。あなたが生活の中でぶつかった厄介なことでも、必ずしも悪い事ではありません。あなたが耐え乗り越えましたが、なぜか分からなかったかもしれません」[2]と説かれました。

 苦しみを舐めて業力を消すことは良いことだと思うことこそ、修煉者の持つべき認識です。

 いろいろ考えて、一晩に2~3時間しか寝ていませんでした。少し休暇を取るという発想もありました。休暇を取るにはどうしたらいいか、連日取って一気に休むか、若しくは一日ずつ取って少しずつ休むか、それとも在宅勤務に変えようか、と考えました。

 結局、休んでゆっくりしたいという発想自体があってはいけないと思いました。 今の自分は、疲れと辛さを感じているだけですが、危険と困難に満ちた状況下でも中国本土の同修は粘り強く修煉を続けて、やるべきことをやっており、海外の比較的安全で自由な環境にもこれだけ多くの同修がメディアで一緒に努力しています。それに比べて、自分が経験した疲れと辛さは何ものでもありません。

 修煉の道で、すべてを尽くして大法の仕事をするという生活を、私自ら選択したのではありませんか。

  師父は「実は私が皆さんに教えたいのは、皆さんの生命は大法のためにやってきたということです!(弟子の皆さんが熱烈な拍手を送る)他に選択肢はありません。本当にないのです! これは大法弟子の場合です。常人の場合、六道輪廻し、各界で転生しますが、皆さんはそれができなくなるのです。皆さんは大法以外、何もやるべきことはありません。ですから、しっかり行なわなければ、あなたを待っているのは悔いしかありません。特に古い大法弟子は緩まないでください」[3]と説かれました。

 翌日はいつものように仕事をして、2日経った頃からそれほど疲れを感じなくなりました。

 メディアで修煉する機会を大切に

 なぜもっと多くの人にやってもらわないのかと同修はよく私に聞きます。現実には候補者がそれほどいないし、頻繁に人を入れ替えるときっと番組の質を下げます。また、人が多すぎると協調が難しくなります。もっと言えば、2人でやるべきことを複数の人に分担させると、威徳もなくなってしまいます。我々は常人の会社ではないからです。

 プレッシャーと困難の中、正念を保って互いに協力し合えば、実は仕事をうまく完成できないことはありません。また、どのプロジェクトも人手を必要としているので、我々新唐人テレビ局だけたくさんの人手を占有してはいけません。テレビ局は各プロジェクトの中で精鋭部隊のようなもので、優秀な兵士だけを集めてやっと戦いに勝つことができるのです。テレビ局の成長と繁栄、衆生を救い済度する役割を果たすためには、人材の安定とスキルアップが欠かせません。

 実際、師父はいつも私たちを見守ってくださり、奇跡が起こることもしばしばありました。ある日、映像がシステムに送信されたのは、放送のわずか2分前で、私は黙々と師父に助けを願って、同時に発正念をしました。その2分はとても長かったので、ずっと目を閉じて、画面を見る勇気すらありませんでしたが、周囲の静けさは放送がスムーズに進んだことを物語っていました。

 テレビ放送の仕事を行なうことは、毎日戦場にいるようです。勝つためには、常に正念、頭の回転、良好な修煉状態を保つことが重要です。

 神韻交響楽団の公演を観る時、私は指揮者をよく見ていました。彼はすべての曲目、様々な楽器を熟知して、各演奏者の状況を把握するだけでなく、演奏中に視聴者の反応に合わせて微調整や変更も行ない、自分も落ち着いて振る舞い、最終的に視聴者の感情を動員して最大限のハーモニーを実現しています。

 師父は「すべての大法弟子は真に修める弟子、確固たる信念を持ち神の道を歩む、修煉の良くできる大法弟子になりたいと思っています」[3] と説かれました。修煉が良くできる状態とはどんな状態なのか私はよく考えると、神韻交響楽団の指揮者の状態は、修煉の良くできている状態だと思いました。常に複雑な状況に置かれても落ち着いて、要領よく仕事をやり遂げられるのは、長期にわたってしっかり心性を修めたことの証です。

 時々、一日にニュースに上げられるほどの出来事がない日もあります。しかし放送は時間通りにやらなくてはならず、視聴者は時間になると我々の番組を見るので、番組をなんとか作らないといけません。私が冷静な状態を保つことができれば、いつも適切なテーマが見つかり、その話題はまるで我々のために用意されたかのように出てくるので、うまく番組を作ることができます。

 時々、他のメディアに注目されていない話題を私たちが報道したりすると、あっという間に大きなネタになって、継続的に展開していくこともあります。 ニュースはニュースで、追いかける必要はなく、個人の選り好みや情を放下すれば心が広くなり、自然に目が鋭くなり、遠くまで見渡せるようになります。

 修煉は苦しみや疲れを伴うだけでなく、常人には味わえない奇跡と素晴らしさを感じることが多々あり、同修間の温かさもあります。早朝の担当をして朝ごはんが食べられない時は、同修が出勤する際に味付け卵を1個持ってきてくれます。小さなことですが、毎回感動しています。

 師父は「それほど困難な歳月を乗り越え、今日まで至り、なんと大変だったのでしょう! 大切にしないのですか? 私まであなたを大切にしているのです! 神まであなたを大切にしているのです!(弟子の皆さんが熱烈な拍手を送る)ですから、なおさら自分自身を大切にすべきです [3]と説かれました。

 テレビ局の仕事に参加して、ここで修煉し誓約を果たして衆生を救い済度する機会を得られたことは、私にとって大変光栄なことであり、大切にしています。あるオーストラリアの同修の協力と無私の貢献に感謝するたびに、彼女は「私は感謝される立場ではなく、修煉と衆生を救い済度する機会を与えてくださった師父、および新唐人テレビ局に私から感謝したいのです」といつも言っていました。彼女の言葉を借りて、師父と同修の皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「北京法輪大法輔導員会議での提案」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDC法会での説法』

 (2018年新唐人・大紀元法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/14/77037.html)
 
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