文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月25日】私たち大法弟子の多くは、特に年配の修煉者は、衣食住にお金を使うことに消極的で質素な生活をしています。普通の人の理論では、これが勤勉で倹約して家事を取り仕切ると呼ばれています。
私が修煉を始めた頃は、実家がとても貧しかったので、生活するため上手に倹約していました。1元でも大切に使おうという気持ちでした。一方、夫は浪費家なので、これを巡ってよく喧嘩をしていたのですが、私は本当にケチだと言われました。私はお金持ちじゃないなら質素に生きるしかないと思っていました。
夫が食料品を買いに行くと必ず私を連れていきます。普通の人は一度に買う量が少なく、一食分か二食分だけでいいのですが、彼は違います。彼は、例えばセロリを少量で買うのではなく、大きな束を買いました。私は彼に「私たちは2茎で十分です、なぜそんなに買うので?」と聞いたら、夫は「余った分は捨てる」と言いながら、ゴミ箱に捨ててしまいました。私は「やめて、すべてはお金で買ったものだから」と慌てて言いました。
もう一つは豆腐を買う時、普通はこぶし大のものを買って食べれば十分なのですが、彼はその4倍の量を買います。私は「食べる前に腐ってしまうので、そんなに買わないで」と言うと、夫は「腐ったら捨てればいい」と平気な顔で言いました。私は「それなら、そんなにたくさん買わないようにしよう」と、改めて勧めましたが、夫は「多いのが嫌なのか?」と言いながら、豆腐を地面に投げつけたので、私は「なんでこんなことするの? お金を払って買ったものなのに、何で地面に投げつけるの?」と言いました。それを聞いた彼は、すぐに足を「ポンポン」と鳴らしながら「もう一度言ってみろ! もう一度言ってみろ!」と言いました。私はもう言えないとわかったので、しぶしぶ黙っていました。
私は悔しい思いをしました! 食料品を買うたびに、こんなことで喧嘩していました。でも、私は修煉者なので、こんな風に口論してはいけません。修煉者の立場からすると、私が間違っていたに違いないのですが、どこが間違っていたのでしょうか? 知る由もありません。心配していたのは、私の家族はお金持ちではなく、お金の管理の仕方がわからない夫がいて、一銭残らず使っていたことです。どうやって生きていけばいいでしょうか? ふと思ったのですが、これって常人の理ではないでしょうか? 私は法に基づいて、内に向かって探すべきです、しかし、探してもなかなか見つけられません。
ある日、私は法を勉強して、次のことに気がつきました。私はなぜ夫を見下しているのでしょうか? つまり、彼が生活するのが上手ではない、私たちは質素にせざるを得ない、という観念があるからです。彼が私の概念に適合していれば、彼はよくできている、私の概念に適合していなければ、彼は悪いのです。なるほど、この考えは私を揺さぶりました。修煉者としては、常人の観念で見てはいけないのです。法に基づいて物事を見るべきだと思いました。
師父は「人は各自運命があり、誰も他人を左右することはできません。あなたの身内も、この世ではあなたの身内であっても、来世では他人の身内になるかもしれず、前世でも他人の身内だったのかもしれません。人は各自運命を持っているため、誰をどうしようとしても、どうしようもありません。人の生命は人によって按排されるのではなく、神によって按排されているからです。あなたが彼らに苦痛を残すか残さないかの問題でもありません」[1]と説かれました。
夫は常人で、人の人生はとっくの昔に決まっていて、按排されています。この世にどれだけのお金を持つべきか、どれだけの食べ物を食べるべきか、どれだけの食べ物を買うべきか、それもかなり前に按排されているのではないでしょうか? 人の節約の度合いによって按排するのではなく、全ては因縁関係があります。
これに気付いた時、自分が間違っていることに気付いたのですが、どうしたら改善すればいいかわかりませんでした。まだ悟っていないので、食料品を買う時になると、少し怖くなってしまいました。彼が必要以上に買っているのを見て、私はまだ不愉快に感じていました。これをどうするのですか? 自分を修め、大法に基づいて辛い心を取り除こうと思いました。
最初は我慢して、野菜を買っても高いとか安いとか、それ以上の話をするのはやめようと思っていました。
ある日、いつものように夫が野菜を買いすぎたのです。私は「私はお金に執着している、この執着を取り除かなければならない」と思いました。私は「張さん、夫が野菜を買いすぎで、分けてあげましょうか?」、そして「李さん、豆腐を食べるのが好きでしょう、夫が買いすぎたので、わけてあげましょうか?」、「おじさんも豆腐一丁あげましょうか!」と声をかけました。それに伴い、夫が買ってきた余った野菜を近所の人に分けてあげました。近所の人には喜ばれいつも感謝されていました。それ以来、私はお金への執着がなくなりました。
私が知らないうちに、ある日突然夫が目を覚ましたように、「食べきれないほどの野菜を買ってきたら、悪くなるんじゃないか?」と言っていました。それからは、私にも「食べられる分だけ買って、買いすぎないように」と注意してくれました。時々、私は「何でこんなに少ない野菜を買ったの?」と聞いくと、彼は「なんで必要以上のものを買うのか? 食べきれないなら、もったいないじゃないか? 本当にお金の使い方がわからないよね!」と言いました。短期間で、彼は別人のようになっており、彼は私の執着を取り除くために、そのような行動をしているのだと実感しました。
倹約は伝統的な美徳ですが、極端なことをするのは常人の考え方です。私たちは、個人的な損得への執着を取り除き、利己心を大切にしてはいけません。
師父は「人間にある如何なる観念も障碍です。私は人類社会が今日まで発展したことによってもたらされた輝かしい成果に反対しておらず、人類が今日まで発展したことによって人類社会で積んだ経験にも反対していません。しかし、皆さんに教えますが、修煉者の皆さんは必ず考えの中からそれを放下しなければなりません。普通の常人なら、この輝かしい成果の中で、人間の観念の中で生きていくことができますが、修煉者として、これらの後天的な観念を放下しなければなりません。つまり、私が言った最大限に常人に符合して修煉するという道理です。常人の中で生活しているため、常人と同じように仕事をし、勉強をすればよいのですが、人間の観念は放下しなければなりません」[2]と説かれました。
師父は「修煉者は安易に常人の中で観念を形成しないからです。全てにおいて法に則り、法をもって謎を解き、常人の観念を破り、法をもって全てを量るのです。正念を固めて法を守る以外、常人のことに対して行なっても何も求めず、成功してもしなくても執着しません。固定観念はなおさら持ってはいけません」[3]と説かれました。
私たち修煉者が法の中の人間の概念をいかに崩し、人間を超越していくか、この法の一節に照らし合わせて理解していきましょう。その後、師父の説かれたことを実行しました。
以上が私たちの学法グループの法に関する共通の交流ですが、もし法に基づいていないところがあれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『ヒューストン法会での説法』
[2] 李洪志師父の経文:『北米第一回法会での説法』
[3] 李洪志師父の経文:『オーストラリア法会での説法』