【明慧日本2021年2月25日】私は1996年に大法を修煉し始めた大法弟子です。修煉が深まるにつれ、同修の欠点を前にして、自分を内に向けて探していますが、同修にもきっと心性を高めないといけないところがあるはずだという考えが常にありました。
かつて、一緒に仕事をしていた同修は、些細なことで同僚に腹を立てて泣いたことがありました。その当時のことを思い出し、同修は関を乗り越えようとしている、私はこのようなことに遭っていないから、自分は大丈夫だと思いました。しばらくして、同じようなことが私自身に起きた時、私は泣くどころか、同僚にしっかりと反論しました。
家に戻り、突然分かったのですが、前回の同修の不満や悔し涙は、私に見せるためであり、私はしっかりと自分の懸念材料を探せないまま、今日の問題が起きてしまいました。私が前に見たものは、この同修と何の関係もなく、師父が私に悟らせるために演じて下さったのではないでしょうか。
心性を高めることが次から次へと起こります。私の周りにいる同修の言葉はたまに棘があり、人を傷つけてしまいます。この同修の問題を知っていますが、怒りから無力感に変わり、たとえ自分に問題があっても同修のこのような対処方法は、どこか間違っているのではないかと感じていました。ある日、母にこのことを言うと、母は私を真剣に見て「あなたも同じよ」と言い出しました。
母は、今までどんな理由があっても子供を守ってくれたので、私は唖然としました。内に向けて探してみると、私の話には棘があったのかな? そんなことはない。笑っているのに人の心を刺すなんて子供の頃から苦手であり、怒った時には怒っていないフリなどできません。ひと通り探しても問題が見つかりませんでした。再び家に戻ると、母は義姉が撮ったばかりの写真を見せたので私は、「義姉は凄いね、独立して事務所を持ったのね」と言いました。写真の中の義姉は、大きめの眼鏡に変えていたので、思わず私は「事務所を変えたから、眼鏡も大きいのに変えたのだわ。今度場所を変えたら、眼鏡は顔を覆うくらいの大きさになってしまうのかしら」と笑って言いました。しかし、母はまた真剣な顔をしたので、私はすぐ笑うのを止め、心の中で問題はここにあるのだとわかりました。
私は笑いながら義姉をからかって、これは冗談だからと言いました。これはよく冷ややかな冗談だと言うのですが、なぜ冷ややかな冗談だというのでしょうか。人をけなし、馬鹿にすることです。この種の冗談はうまく受け止められない人がいるので、誰の前で言えるものではありません。
私は今まで同修を鏡として使うことに対して、鏡の中で自分も同じ物を見ることだと思っていました。これは自分の考え(理解)が狭くて、同じ心を持っていても違う表現が現れ、場合によっては、冷ややかな冗談は人を傷つけることがあり、かつて私も同修をからかって動揺させたことがありました。
以前、同修が私に言ったことを思い出しました。「私の親戚の同修は皮肉をいう癖があり、もしかしたら自分にも、同じ癖があるのではないか」と心配していました。当時の私は、自分の問題点が見えていなかったのです。他人の問題は見てすぐわかりますが、自分のことは全く気付いていないのです。
一幕一幕で師父が私を悟らせてくださっていることが分かりました。それは、鏡をよく見ておらず、自分の内に向けて探すことができないからです。
それからは、心性を高めるための根本的な変化があったと感じています。内に向けて100%自分を探すことが何であるかを知り、自分に起こったことは自分自身に要因があり、他人とは全く関係がないことだと分かりました。矛盾と絡み合いは、私たちが向上するために師父が苦心して按排したはしごであり、師父に感謝いたします。今まで私に葛藤を与え、試練を与えた同修にも感謝いたします。自分の心が痛み、自分を怒らせたことは、まさに問題の根本を突いたのです。心から同修に感謝いたします。