「忍」について少しの悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年4月1日】最近、同修を救援する過程の中で、全体的な協調が必要になり、協力していく中自分の人心が曝け出されました。同修を救援するプロジェクトに参加するのは10年ぶりなので、いくつかの問題について、自分は「謙虚」に同修の意見を聞きました。実は、その「謙虚さ」の背後には、自分ができると思っているのではありませんか。

 以前、自分が関わっていた案件は成功したので、しかも多くの案例を経験し、弁護士との接触も多くありました。しかし今では、同修はズバズバと「君は間違っている、そのようにしてはいけない、君は一部しか考えていない、君はこのようにやるべきだ、君は誰々の同修と協力したくないのだ」と言ってくれます。 実際には、同修が言っているような状況ではありません。私がそのようにすると言うと、彼女は私にこのようにすると言うのです。

 なぜこのようなことが起きたのだろうかと考えました。問題そのものが正しいかどうかではなく、自分の執着心が原因です。師父は「忍の中には捨があり」[1]と説かれています。自分は、忍耐すると同時に執着心を捨ていくことでもあると理解しています。なぜ彼女は私に対してこのように振る舞っているのか、自分の執着心が引き起こしたのではないと考えました。

 「法の実証するために一緒にいることが多いので、人間としての付き合いもあり、食べたり飲んだりして、知らず知らずのうちに同修との情が生まれました。美味しいものがあれば、いつも彼女にあげたりします。また、彼女に頼る心があり、彼女には素質があるので、弁護士に会うときにいつも彼女を同行させたいと思っています。もう一つは、今まで、同修はずっと私を尊敬し、褒める言葉を聞き慣れていましたが、今は逆になっています。そのほか、旧勢力はこれらの人心を利用して、同修の間で隔たりを作って全体を成し遂げないように、邪魔をして破壊する可能性もあります」と自分は内に向けて探しました。

 師父はこのように説かれています。「修煉の中にいかなる人間のものを加えても、極めて危険なのです」[2]。これらの問題を見つけた後、私は同修への情を捨て、普通に付き合うようにし、誰にも頼らず、師父がすべてを与えて下さり、「修は己にありて、功は師にあり」[3]、全ては師父がなされているのだと思い、自信がついてきました。

 私は執着心を見つけ、冷静な気持ちで丁寧に同修に説明しました。彼女は180度考え方を変え、「弁護士に依頼することに関して、あなたの方が豊富な経験があるので、何でも協力しますよ」と言いました。

 一見、発生しそうなトラブルが、内に向けたことによって解決され、私たちの心はまた一つになり、自身に向けて修める素晴らしさを真に体験しました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「圓容」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「根を掘る」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/29/422700.html)
 
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