「忍」を修めることについて少しの悟り
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文/ 中国の大法弟子

 【明慧日本2021年3月28日】ある日の学法小グループで、突然嵐が来たかのように、ある同修に激しく非難されました。その時私はただそこに座って、何の考えもありませんでした。同修の現れはあたかも微かな風のように過ぎ去り、自分に対して何かの作用はありませんでした。その日帰宅してから、奇妙な感覚がありました。身体の全ての細胞が何と言っていいのか分かりませんが、一種の喜びと幸福がありました。この事は、私に「忍」を修めることについて新たな悟りを感じさせました。

 以前私は「忍」は、悔しさや、ダメージを受けたとき、不公平を受けたときなどに、自分の気持ちを抑制し、耐えることだと思っていました。「忍」は自分が被った魔難のときに見せる姿で、他人が自分にもたらした苦痛をどのように耐え忍ぶかで、問題の根源は他人のせいにしていました。

 現在突然はっきり分かったのは、このような「悔しさを耐え忍ぶ」というのは、まさに自分の人心による反映で、自分の人心に触れた後に現れることで、確かにこの現れはポジティブで理性的です。しかし問題の根源は実際は自分なのです。つまり、自分に何か辛いことがあって「忍」をするとき、実際はそこに人心が存在するのです。

 師父は説かれました。「忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です」[1]

 私が悟ったのは、捨てない忍は、ただ表面の忍をしたにすぎないということです。このような忍は条件があって、ギリギリのラインがあるので、いったんそのラインに触れてしまうと、人心が跳ね返り、深刻な場合爆発してしまいます。ですからトラブルの中、自分が耐え忍んでいると思う時、その感覚の背後にある各種の執着や人心を捨てる必要があるのです。

 トラブルの中、いつも忍と捨があり、どれも自分の生命の本質を昇華してくれます。問題の中で是非を論じるのではなく、トラブルの表面上の正誤を見ないことです。自分の身近で起こることは、師父の按排によるもので、自分を高めてくれる機会であることを信じることです。どれも自分を高める要素があるのです。自分がますます真に帰する時、心は静止した水のように静かな状態に達することができ、平然と捨てることができ、動じません。

 人心は往々にして観念の支配を受けています。私は師父の一段の法を覚えたことで、根本から観念を変え、多くの人心を取り除きました。

 師父は説かれました。「修煉の理と人間の理は相反するものだからです」[2]

 大法の威力と智慧が私の悟りを開いて下さり、迷いの中で惑わされることなく、今回の突然やってきたトラブルの中で心を動じさせないことが出来ました。

 少しの体得ですので、法に則っていない所がありましたら、同修からの指摘をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「漏れるところなし」
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/21/422184.html)
 
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