内に向けて探すとき、「自分のどこが大法に合わないのか」と自問する
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文/中国東北の大法弟子

 【明慧日本2022年3月16日】内に向けて探すことの重要性を、修煉者はみな知っています。では、どうやって内に向けて探すのでしょうか? 内に向けて何を探すのでしょうか? 中にはどうやって内に向けて探すか分からない修煉者もいて、ひたすら執着心を探す修煉者もいます。以下、私自身が内に向けて探した例をいくつか同修と共有したいと思います。

 私はどのように探しているかというと、トラブルにぶつかった時、「自分のどこが大法に合わないのか」と自分に問うのです。

 2009年の前半、私は修煉状態が悪く、父との対立が激化していた時期がありました。ある日、父と言い争った後、私は家を出ました。その時、天目で師父の法身が見えて、師父はとても穏やかな口調で「修煉者として、こんなはずではない」と言われました。私は師父に「師父、私も駄目だと分かっていますが、しかしその時になったら情緒をコントロールできなくなります」と言うと、師父は何も言われませんでした。

 これまで、私もこんなトラブルになるのは自分が持っている何かの執着心のせいだと思って探したのですが、何も見つかりませんでした。トラブルを激化させる原因を見つけられず、ある日、父と揉め事を起こした後、父が私を殴ろうとしました。こうなって、「自分は修煉者だが、どうして父に殴られるほどの窮地まで落ちたのか」とやっと目が覚めました。私は思わずため息をついて、「いったい自分のどこが大法に合わないのか」と考えました。その時、白い綿のようなふわふわとしたものが見えました。父も何もなかったかのように私を殴る気がなくなりました。「ああ! 長い間この関をずっと乗り越えられなかったが、今日やっと乗り越えた」と私は喜びました。

 しばらくして、また父との間に同じトラブルが発生して、私は「あれ、どうしてまたこんなことになったのか、自分のどこが大法に合わないのか」と考えました。その時、また白い綿のようなものが見えて、当時のトラブルはまた解決されました。執着心を探しても問題を解決できず、「自分のどこが大法に合わないのか」を考えると、すぐに問題が解決したので、それでは今までの執着心を探す方法が間違っていたのではないか、と思いました。

 今まで内に向けて探す時、私はずっと自分の執着心を探していて、明慧ネットの交流文章にも、「自分のどこが大法に合わないのか」を探すことについての文章もありませんでした。では、「自分のどこが大法に合わないのか」を探すことは正しいことなのだろうか、と私は考えました。旧宇宙が滅びる時期に入ったのは、大法から外れたからで、大法に合っていれば変異することはありません。それでは、私は自分の修煉に現れた正しくない状態に対して、内に向けて「自分のどこが大法に合わないのか」を探すことは、正しい修煉方法に該当すると思います。このように内に向けて探すと、自分の正しくない状態を直接大法に正してもらえると思います。

 グループ学法をする時、私は自分の見解を皆と交流して、その白くて綿のようなものが何なのかが分からないと言いました。同修たちは「その白いものはあなたの執着心ではなく、それはトラブルが発生する原因だと思います」、「このように内に向けて探すのは簡潔明瞭ですね」などの意見を言ってくれました。同修AさんはBさんと不仲で、どうやって内に向けて探せばいいか分からなくて、Bさんとの間の隔たりをずっと取り除けませんでした。ある日、AさんはBさんの家に行く途中でずっと、「私のどこが大法に合わないのか」と考えていました。結局、まだBさんの家に着く前にすでに、心の中に存在していたBさんに対する不平不満はきれいに無くなっていました。

 Aさんは、「その後、Bさんに対して不満を生じたことは一度もありません。Bさんに会う時は、他の同修に会う時と変わらず、嫌な感じは少しもありません。このように内に向けて探すことは、同修との間の怨恨を解決することもできると分かりました。考えてみれば、修煉者にとっては業力、因果関係、思想業力、執着心、観念、外部からの妨害などは『大法に合わない』範囲に含まれているんですね。内に向けて『自分のどこが大法に合わないのか』を反省する時、大法に合致しないものがその反省にすべて含まれており、漏れがないですね」と言いました。

 どうやって内に向けて探せばいいかを悟ったので、それ以来、私はこのようにしています。2010年の後半、実家の東北地方を出て、同修が経営する工場に働きに行きました。仕事が安定したある日、「このように内に向けて探すのは、大法に直接自分の至らないところを正されていることなので、大法に対して尊敬の態度を持つべきだ。これから内に向けて探す時に両足を組んで、両手で結印するべきだ」と考えました。それで、座禅の姿勢で内に向けて探し始め、しばらくしてから入定して、天目にハリネズミ、色魔、得体の知れない一匹の動物が見えました。私は彼らに「私の空間場に存在したいならば、大法に同化しなさい。大法に同化しないなら除去します」と言うと、彼らは全部消えました。「修煉者の考えが法から離れれば、邪悪は付け入ってきます」[1]。自分の考えが法から離れたため、ハリネズミなどが私の空間場に入ってきたのです。

 私はいつも朝の出勤前にこうやって内に向けて探しています。探してから、空間場がとてもきれいになって、足も軽やかになります。以下に、私が内に向けて探した例をいくつか挙げてみます。

 2011年の前半、出社前に内に向けて探して、天目で大きな手が何かを押さえている場面を見ました。これは私を妨害するための旧勢力の按配だと知っています。そして3、4日後、会社の技術者が私に「きみは材料を間違えて混ぜたので、全部使えなくなった。数千元も損した」と言いました。

 私は、「私はこれらの材料のことを詳しく知らないので、材料を撹拌するたびにあなたたち二人のところに持って行って、確認してもらっています。間違えるはずはありません」と言うと、その技術者は 「結果として違っているのだから、材料はもう使い物にならない」と答えました。私が「そうであれば、損した代金を私の給料から引いてください」と言うと、技術者は何も言いませんでした。しかし、私は心苦しかったのです。給料を引かれるのが辛いのではなく、大法の良さを証明できないのが辛かったのです。その時に師父の法身が現れて、穏やかな声で私に「あなたのせいではない」と言って下さいました。一瞬、涙が湧いてきました。

 一緒に仕事をしている同修にその事を話したら、同修は「もしあなたの言ったことが事実であれば、それは本当にあなたのせいではなくて、それは邪悪の妨害です。内に向けて探してみるべきです」と言いました。彼女の話を聞き、仕事をしながら内に向けて探し始めました。2時間近く探して、自分の空間場の中に一枚の壁が消えて、空間場がきれいになったのが見えました。これで、今日の騒動はもう落ち着いたと私は分かりました。他の空間の邪悪な要素を解決すると、表面空間の妨害も存在しなくなるからです。昼過ぎにその技術者はまた私に 「大丈夫、あの材料はほかの材料に混ぜてまた使えるよ」 と言いました。私は「そうですか、給料が引かれるかと思いましたよ」と冗談を言いました。

 2014年のある日の午後、仕事が終わってから座って内に向けて探していたら、ぼんやりした感じがしました。2日目も、3日目もそうでした。それは妨害だと思います。私をぼんやりさせた生命体に「私は内に向けて探しているので、私の意識をぼんやりとさせる行為は、大法が私を正すことを妨げているのであり、大法に対する不敬でもあり、あなたを取り除く」と言いました。すると、意識がはっきりするようになりました。自分の空間場の中に檻が現れて、中に高層の生命が閉じ込められています。その生命体がどんな様子かを詳しく見ようとした時、檻に一枚の布がかけてありました。師父は私に見せないのだと分かって、私も見たい気持ちを放下しました。

 2017年11月あたりは私の比較的に精進していた時期で、毎日内に向けて探していました。しかし数日間、どこが大法に合わないのか何も見つかりませんでした。その状態はおかしいと思いました。修煉者には必ず漏れがあるのに、どうして大法に合わないところを見つけることができないのでしょうか? ある日、明慧ネットを見ていた時、お腹がひどく痛んで、発正念しようと思ったのですが、考えてみてやはり内に向けて探そうと思いました。お腹の痛みに対して「自分のどこが大法に合わないのか」と考えて、しばらくするとお腹が痛くなくなりました。同修にそのことを伝えると、同修は理解できず、「何の執着心を見つけたの?」と聞いてきました。私は「何も見つからなかったけど、腹痛は治りました。旧宇宙の生命は、彼らは自分のどこが変異したかを知っていますか? 知らないでしょう。彼らは知る必要もないのです。法を正すことに対して正しい態度を持って、それを邪魔しなかったらきっと救われます。それと同じ道理で、私は自分の修煉の中に現れた正しくない状態に対して、内に向けて探せば、大法はきっと私の正しくない状態を正してくれます。修煉における漏れに関して、私が知る必要がある漏れと知る必要がない漏れがあると思います。自分の正しくない状態が正されればよいのであって、何の執着心を見つけたかにこだわる必要はないと思います」と答えました。

 時には、このように内に向けて30分探しても、自分の空間場はきれいになりません。その時、私は「自分のどこが大法に合わないのか」と声を出して言うと、とても良い効果を収めて、空間場が見る見るうちにきれいになりました。しかし、なぜ声を出して言ったほうが、ただ心の中で考えるより効果が良いかについて、今も理由は分かりません。

 内に向けて探すことは限りなく大きな内包があり、自分の執着心を探すだけに留まらないと思います。例えば、学法する時に集中できない、眠くなる、発正念の時に手が倒れる、座禅する時に眠くなるなどの状態は、どのような執着心によってそうなったのでしょうか。外部からの妨害によるものだと思います。また、病気の場合、執着心を見つけて病気が治った同修もいて、どのように執着心を探しても病気が治らない同修もいます。実は、病気の原因は複雑なもので、原因がただの執着心である場合、その執着心を見つけたら治りますが、原因が執着心だけではない場合、例えば業力、以前の借りを返すなどの場合は、ただ執着心を探すだけでは治らないと思います。

 「自分のどこが大法に合わないのか」を探すことは、漏れのない探し方だと思います。トラブルの原因が分からなくても問題が解決した時もあります。ただし、この方法を使う時、大法を固く信じる意志がなかったり、不謹慎な態度を取ったりすると、効果がないと思います。頭の中で「自分のどこが大法に合わないのか」を一心に考える状態でなければなりません。一回だけ考えて問題が解決できる場合もあれば、数分間かかる場合もあり、トラブルや妨害の大きさよって解決の所要時間も異なると思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「米国フロリダ法会での説法」

【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/2/13/438818.html)
 
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