「情と私心」について少しの悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年6月6日】最近修煉が同じ状態をぐるぐる巡り、原因が分からず、ずっと何らかの状態を突破できず、魔性もおそらく出てきて、(普段は堅くこらえていますが、相手が行き過ぎると爆発します)自分の修煉上に問題があるのを知っていますが、身近な色々なことが我慢できなくなりました。(周囲の人は人として基本的な道德がないように感じます)

 当然ながら、自我の要素があり、あるいは利己的な要素によって繰り返し出現していると知っています。同時にこれらの身近にある色々なことは、徹底的に人の観念と執着心を放下する良い修煉になることも知っています。あるいは一つ一つの関を乗り越えておらず、積まれたため、邪悪が妨害と破壊の作用をしているのかもしれません。しかし乱れた中で一体なぜなのか分からず、時間が長くなると本当に間違いに気づかなくなりました。昨日の学法のときも師父に啓示を求めました。一体自分はどこに問題があったのでしょうか?

 おそらく師父は、弟子が悟らず、勇気がなく、前へ進もうとしないのをご覧になり、棒喝してくださいました。今日『轉法輪』を学んでいると「本当に高い次元へ人を導く」のところで、突然法の中から啓示を感じました。そのとき本当に気持ち良く感じ、まるで悟ったかように目の前が明るくなりました。

 問題は「情」が重すぎることです! 「情」が重いのは、修煉者として決して良いことではなく、反対に悪いことです。はっきり言うと、「情」が重いのは私心が重いということです。これらは修煉者にとって不必要な執着心です。

 「情」による偽りの自分を自分だと思っているから、認めたくないかもしれませんが、実際そうなのです。例えば常人の中の「情」が重い人は、男女の「情」のために飛び降り自殺し、幾らかの常人はそれをとても良いと感じますが、実際は世間の「情」に夢中になる男女は理智がなく、自分が何をしているのかも分からないのです。実際全て私心ではありませんか? 人を害し、自分を害し、情のために苦しみます。修煉者は常人社会で修煉していますが、この極端な「情」を尊重しているのではなく、命をかけるわけでもありません。しかし伝統的な夫婦の恩を守り従い、因果関係に従い、一緒に仲睦まじい生活をし、互いに励まし合い、共に本当の家に回帰するのです。

 また例えば肉親の「情」ですが、これは最も人が迷うところです。なぜでしょうか? 肉親の「情」はとても濃く、どれほど濃いのでしょうか? ある人は自分で肉親の「情」が薄いと言いますが、実際のほとんどは薄くなく、やはり濃く、濃くても自分では薄いと感じているのですが、それはその中で損傷を受け、傷つき、怨み、復讐したりして、本当にこの執着心を放棄したとは言えません。常人が俗に言う「血は水よりも濃い」は血縁関係を指していて、世間の人が本当の自分の家に回帰することを重く妨げています。世間の一切は人を迷わせます。もしそれに執着すると、修煉者は破壊されてしまうかもしれません。もしそれを淡白に見れば、修煉者はこの方面で抜け出すことができます。なぜ肉親の「情」が男女の「情」に比べて世間の常人を迷わせるのか、修煉者でさえもそれをはっきり分かりません。

 この変異した現代社会の中で、人々の肉親の「情」は、幾つかの身内との関係ですが、しかし男女の「情」は、変異した社会の中で、世間の男性や女性がこんなに多くおり、伝統を守る人は少数です。年を取るまで付き合えますか? 反対に気が移りやすい人が多いのです。しかし肉親の「情」が原因でかつてどれほどの修煉者が努力を無駄にしたのでしょう?

 現代社会の変異は、すでにそれが変異だと気づかないほどになり、皆が変異したので、この全てを作り上げたのは変異の「情」だと思います。修煉者は「情」の執着の中でどうすればいいのか迷ってしまいました。「情」は死にたくなく、とても悪賢いのです。例えば、あることは自分のためでなく、家族のためだから執着じゃないと思っているのです。しかし法をもって内に向けて探してみると、その根源はやはり自分のためで、あの「情」を捨てたくなく、「私心」を失いたくなく、人から良くしてもらえることを失いたくなく、さらに現在持っている全てを捨てたくなく、物質の享受と数十年の人間の幸せと楽しみを失いたくないのです。はっきり言うと苦をなめたくなく、名声と利益を損ねたくなく、更に自分を変えたくないのです。一切の全ては自分のためで、偽の自分のためです。

 もし動機が本当に完全に人のためだったなら(人とは1人の人を指すのではなく、更に多くの人のこと)絶対に心が動じず、腹を立てず、怒らず、これこそ慈悲心と言えます。もし少しでも不純で、私心が隠れていたら、それに触れたとき爆発します。最も根本の執着は「私」や「情」で、そのために心が動じ、怒り、腹を立て、更には復讐までして、これはとても恐ろしく、魔道に入り、決して正果を得られません。または業力をつくり、当然ながら法を正す時期の大法弟子と称することはできません。

 しかし正常な社会で、正常な道德観念の下で、親孝行と母性愛は人のよくある「情」です。そこに「情」がなければ人とはいえません。今はとても多くのことが変異して、忠誠心や親孝行を馬鹿にする観念があり、人々は皆助長し、自己保身は人々が公明正大で人前で言える観念となり、恥ずかしくも思わず、逆に栄誉だと思っています。魔性の現れが若い人の流行になり、堂々と個性として、多くの人が称賛しています。

 実際、本当に自分の利益に関わったとき、肉親の「情」、男女の「情」は全くあてにならず、簡単に捨ててしまいます。何が勇気をもって正しい行いといえるのか、何が正義のためにりんとして屈しないのか、何が正義のために命を捨てるということなのか、何が忠誠心か、何が親孝行か、何が恩か、何が人か、何が慈悲なのか、これらを現代の多くの人はとても可笑しいと感じています。しかし表面の破壊は内心の渇望を阻害できず、全ての人は内心の深いところで解脱を探しています。それでこの数年、寺院も線香がとても盛んで、しかし意味があるのかは人によって違ってきます。

 「情」があれば「私」があり、「私」があれば「情」があります。「私」のどこから慈悲心が出るでしょうか。「情」があれば更に慈悲心はでません。少なくとも修煉して取り除いていない部分は慈悲心がなく、魔性を発していてどうやって慈悲心がでるでしょうか。慈悲心は「情」ではなく、「情」を超えています。慈悲心は人に圧迫を感じさせず、慈悲心はまた特別に誰かに対することでもありません。しかし慈悲心は全てを溶かすことができます。

 修煉者の忌は独りよがりで、自分がどうとかのことばかりです。実際には誰も特別な人はなく、また特別なこともありません。だから安心して自分を修めましょう。それで修煉者の基本の境地になり、修煉者としての道理が分かります。この心を取り除かなければ、必ず求める修煉になり、これは必然です。

 長年修煉して、やっと何が修煉なのかが分かりました。修煉とは自分を修めることで、人に見せるためではありません。

 参考としてこの文章を書き出しました。合掌

【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/2/426447.html)
 
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