文/ウクライナの大法弟子
【明慧日本2021年8月31日】私は長い間、物事をやる前に「何のために?」と自問する癖がありました。そして、そのメリットとデメリットを比較して選択していました。
2021年5月、プロジェクトチームの交流会で、私は座禅の話をしました。実は4月に入ってから、座禅をすると、最初の数分と終わりかけの数分にまるで拷問のような足の激痛に襲われるようになったのです。そのため、毎日座禅の時間になると、恐怖にかられ、4月は1時間できたのはたった1回で、それ以外は30分しかできませんでした。このことから「変わらなければ」と決心し、煉功に対する同修の交流文章をたくさん読みました。しかし、自ら行動に移さなかったため、効果があまりありませんでした。
5月に入り「世界法輪大法デー」を迎える時期のある日、思いがけず安定して揺らぎのない状態で1時間座禅できました。それからは座禅の状態が根本から変わり、1時間の座禅がとても楽にできるようになりました。そして、座禅が好きになり、毎日しっかり静功を煉りました。自分の内に向けて探したり、正念を発したり、学法を強化したりしたことによって、もたらされた結果なのだと思いました。
メディア法会開催の後、何人かの同修が、師父が法会にいらっしゃった話をしました。1人は、師父と2年以上お会いできていなかったが、師父の話を聞くと、この2年間、師父がすべての弟子や衆生のために、多くのことを身代わりになってくださったと感慨深く言いました。
その話を聞いた私は深く感動し「そうか、発正念にしても、法を学ぶにしても、常人レベルの努力しかしていなかったのか。拷問みたいに感じた座禅の激痛は師父が身代わりになってくださったのだ」と、悟りました。もし今後の座禅で再び激痛が出たときは、自分に対し「もし、この耐えがたい5分間で本当に衆生を救うことができるなら、耐えられますか?」と自問し、答えはもちろん「はい」です。
このような形で自分を励ましました。衆生を救うために長く坐禅するようにと自分に言い聞かせたことは、とてもポジティブで正しいものだと思いました。しかし、今日坐禅したとき、また新たな悟りがありました。
今朝の坐禅で私はすぐに入静し、不意に太平天国の石達開という人物のことを思い出しました。彼は清国軍に捕らえられた後「凌遅刑」(りゅうちけい:処刑の方法)にされたのです。この刑は、人の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えて死に至らす処刑法です。人が耐えられる痛みには限界があります。一回一回の切り口が耐え難いもののはずなのに、彼はなぜ泣き叫ばなかったのだろうか? なぜ人々に非難された悲しみと怒りを示さなかったのだろうか? 彼が沈黙し、我慢したのは、何のためでしょうか? 以前私は彼は死ぬことを恐れない英雄だと思っていました。
死に直面した石達開は、切り傷の痛みを感じ、死に一歩一歩向かう自分を見ているのは「何のため?」ですか。
「何のために」という問題を考えてみると、私はいつも「ある目的のために行うこと」という思惟の習慣性があると気づきました。例えば、人を救うため、プロジェクトに参加するためなどです。目的を考えず、単純にプロジェクトを遂行し、その中で力を出し合って円滑に進めれば、その方がいいでしょう。しかし、このように思うことは少なかったのです。
また、石達開の立場に立って考えてみると、処刑場に立っている彼は、人間としての利益をすべて失い、権力も名声も、かつて持っていたもの、上げた武功(ぶこう:いくさのてがら)も威勢も、すべて失っていました。その時の彼の心は、もしかしたら煙のように空っぽだったのかもしれません。彼は大きな苦しみの中で「私は人類のために手本を残したい」と考える余裕があっただろうか? そうは思わないでしょう。
それで私は「もし、人が宇宙の特性と繋がることができたとき、どんなこともやり遂げられ、すべてを達成することができ、どんな次元の生命でも成就できる」ということを理解しました。「おそらく、彼はこの肉体を含む人間のすべてを放棄したとき、その瞬間に宇宙の特性と繋がることできたのかもしれません。宇宙の特性は彼に肉体の縛りを超越させ、特に体の苦痛という感覚を完全に超越した」のだと思います。この歴史的な意味合いを理解することで、昨年暗唱した大法のある段落を思い出しました。
「根基の良い人には白い物質が多く、この白い物質はわれわれの宇宙と溶け合い、真・善・忍の特性と隔たりなく溶け合えます。そこで宇宙の特性が直接あなたの身体に反映し、直接あなたの身体と通い合うようになります」[1]と、暗唱したところ、心が震えました。
それで、その段落の法理の細部までもっと見ようと思いましたが、どうしても見えませんでしたが「それは、一目で底を見切れない果てしない広大な世界である」と、法に浸り、現実に戻りたくなかったのです。そして、私は目を閉じて何度もこの段落を唱えました。唱えれば唱えるほど、凄く玄妙な気持ちになり、まるで周りのものがすべて私から離れ、すべてが静止状態になったような感覚でした。
今日、坐禅した際「心身ともに宇宙の特性と通じ合っているとき、普通の生命なら、肉体からもたらされた苦しみを超越し、その次元を成し遂げることができる。もし修煉者なら、魔難の束縛を超え、さまざまな次元で成就することができる」と、その段落の法理が展開される細部を体得しました。習慣的な思考がなければ、もはや「何かのために」ではなく、大法の厳かさ、素晴らしさを弟子の体で現せます。そのときに感じたことは確実で素晴らしいのです。
注:
[1]李洪志師父の著作:『轉法輪』