文/河北省の大法弟子
【明慧日本2021年10月15日】私は中学校と、高校の教師で、1998年2月から法輪大法を修煉しています。ある日、同僚がある事を私に教えてくれ、私の心は大変動揺しました。私と同じ職員室のもう一人の同僚がキャンパスの中で大声を出して数人の学生を罵ったので、その原因はあの数人の学生が先に彼を罵ったと感じたのです。しかし学生達は彼を罵ったとは認めず、その上大変怒って、彼らはクラス担任の先生を探しました。また校長先生も探し、区教育局に行ってこの同僚を告訴しようとしました。最後に、彼らから好意をもたれている同僚が間に入り、彼らをなだめて、ようやく静まりました。
私は、その時とてもびっくりしました。「どうしてこのような事が私の身の回りで発生したでしょうか? 私は急いで内に向かって探し、私の学生への対応に適当でない言動があったり、修煉者としての標準に適さない部分があったのではないか?」と考えました。
私は内に向かって探すと、本当に多くの問題が見つかり、私はとても恥ずかしく感じました! 普段から私は厳格に「真・善・忍」の標準に従って自分に要求しておらず、学生に対して、慈悲心がなく、善良な心がありませんでした。たとえば、教室の中でもともと成績の良い学生が講義を聞いていないのを発見すると、私は不機嫌になり、怒ります。私はどうして怒るのでしょうか? 表面から見れば学生のためではなく、実は自分のためです、そうでなければ自分が怒ることはないでしょう。彼らの試験がうまくいかないと、私の面子が保てず、彼らの試験がうまくいくと、私は思わず喜び、自分を誇りに感じます。そして陰で同僚と比較して、自分の教育の能力が彼らより上だと考えます。これは名を求め、利を求め、自己中心の表れです。実は学生の成績が良いのは、教師の功労が全てではなく、それは彼らの努力の結果です。同じクラスの中で、どうして成績の悪い子供にも理解できるように教えることができないのでしょうか?
時には授業中、勝手に話をしたり、その場限りの言い逃れをするので、私はしばしば彼らをひどく批判し、時々私は彼らを私の心の中で追い出すという考えさえ持っています。表面から見れば教室の秩序を維持するためで、実は自分のメンツを重んじる心と虚栄心を維持するためなのです。師父が「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」 [1]と私達に教えて下さいました。「あなたの考えが変化すれば、周辺環境に変化をもたらすことができます」 [2]。以前、私はある女子学生が好きではなく、心の中でずっと彼女を排斥していました。彼女は班長で、力強いエネルギーをもち、高慢な態度をとり、とてもメンツを得意として、しかもクラスのリーダーです。彼女はクラス担任の前では上手く振る舞いますが、担任の目がなければ、彼女の行いは他の生徒にも及びません。彼女は私を尊敬するどころか、私が好きではないようです。この状況はとても長い間続きました。ある日突然、何かがおかしいと感じたのですが(実は師父の啓示でした)、なぜ私は彼女を見下したのだろうかと内に向かって探すと、彼女は私にとって鏡のようであり、実は彼女について考えていたすべての欠点こそ私がもっているものだと気づきました。 本当にびっくりしました。 自分を見る時は花のように全てよく見え、他人に対してはこれも悪い、あれも悪いと、ほとんど短所しか見えませんでした。ですから、時には心の中のバランスが取れず、陰でリーダーや同僚と力比べをして、彼らの欠点がたくさん見え、私こそが真面目に働き、最も良い人であると考えていました。
私はとても悩んでいます。こんなに長い間修煉しているにもかかわらず、私はまだ個人という枠の中から跳び出しておらず、師父は「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません!」「3」とおっしゃいました。「何かを行なうとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考え、このことは誰にも言えますし、誰もが分かっていますが、肝心なときになると、それができなくなります」 [1]。私は本当に師父に合わせる顔がありません!
私が彼女に対する見方が変わって来た後、彼女も突然変わりました。別人のようでした。私が偶然に彼女のクラスの入口を通った時、彼女は2度も自分が食べているアイスキャンデーを突然私の目の前に手渡して私に食べさせました。私はその時少し戸惑いましたが、嬉しかったのです。彼女がこんなにも無邪気で、可愛い学生だとは思っていませんでした。彼女は私を最も理解し、信頼し、最も好きな先生として近づいてくれました。彼女はおやつを持って来て食べる事を、私がクラス担任に告発するのをまったく心配することもなく、ただ彼女は、自分の最も好きなものを私と分かち合いたかっただけなのです。
内に向かって探すのは本当に素晴らしく、修煉は厳粛で絶妙です!
注:
[1] 李洪志先生の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
[2] 李洪志先生の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
[3] 李洪志先生の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」