内に向けて、不平の所を平に修め、円満に補う
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2022年4月18日】私の仕事は学校の教師です。クラスの子供たちは普段は良い方なのですが、ある科目の授業になると、クラスの秩序が乱れてしまいます。その授業が終わったら、多くの子供は、授業中の秩序が乱れることについて私に恨み言を言ってきて、「誰々が秩序を守らない」、「誰々がいたずらをした」、「授業の担任の先生は全然構わない、授業を聞きたいと思っていてもに落ち着かない」などなど。私はいつも自分の時間を利用して、このようなことを解決して、時間が経つにつれて、心の中に不平不満が重なってきました。ある日、私はその授業の担任の先生に、授業の秩序をしっかり取り締まってほしいと言いました。その後、その先生はクラス全体の生徒の前で、私が彼を誤解したと言い、また生徒に人を誹謗中傷しないようと言いました。またその後、隣のクラスの生徒は疑いの眼差しで私に「あなたはたいへん良い人に見えますが、実際そうではないでしょう」と聞きました。私はびっくりして、彼に「何故、この話をしたのですか」と聞きました。彼は「ある科目の担任の先生が言いました」と話しました。

 私は心の中にいろいろな味が混ざっているように、「その先生はあちこちで私の悪口を言っているのでしょうか」と思っていました。面子を失い、悔しさで、腹が立って、辛い気持ちが溢れていました。しかし、すぐ自分は修煉者ではないでしょうか、もしその先生と争ったら、常人になると思いました。そして、このことは、偶然ではない、私の心性を向上する時だと思いました。私は無条件で内に向けて探しました。探してみると、自分がその先生の後始末を行う時、徐々にその先生に対して恨む心が生じていたと気づきました。心の中に、「その先生がクラスをしっかりと指導することができない、多くの後始末が私にかかり、逆にその先生の給料は私より高い」という考えが浮かびました。嫉妬心、またその先生が気に入らない心など一つ一つ暴露しました。そして、その先生は私が大法の修煉者であることを知っているので、私はしっかり行わないと、大法に泥を塗ることになるのではではないか? 必ず法の中で正すべきだと思いました。

 私は、その先生に対して腹を立てることをやめるだけでなく、心を込めて優しく対応すべきだと悟りました。その後、その先生の授業の時、自分の時間を取って、教室の後ろに座って、秩序を維持していました。以前から、生徒はその先生をあまり尊重していませんでしたが、現在私は生徒にその先生にはしっかりと挨拶するように要求しました。不思議なのは、それ以来私の不平不満の気持ちが全部消えてしまって、たいへん落ち着くと同時に、更にその先生の優れているところや、自分の心が狭いからだと気づきました。その先生のおかげで、自分の心性の向上ができて、私は本当にその先生に感謝すべきだと思います。

 そもそも耳が痛い言葉は、無条件で内に向けて探すことによって、心性の向上の機会になります。大法は直接心を指して、生活中のことを利用して、私のいろいろな良くない心を暴露します。だから、修煉の道で、良いことであろうが、悪いことであろうがすべて良いことです。このことによって、私は、自分の生命の意義は円満成就して師に従って天国の家に帰ることを悟りました。「円満成就」となれば、心の中に不平の所があってはいけません。例えば、一つの円環、とげがあれば、どうなるのでしょうか? とげが大きい場合、転がる時、すぐ倒れます。とげが小さい場合、真っ直ぐ転がることができません。つまり執着心があるかぎり、周囲と調和できない状況が必ずあります。「内に向けて探す」の場合、その円環のとげを見つけて、大きくても、小さくても、漏れがないように見つけて、そして平に磨きます。絶えず内に向けて探せば、すべてのとげを平に磨くことができ、不平の所を平らに補うことができれば、円満成就になるでしょう。

 私は何かあったら必ず内に向けて探すと決意して、慈悲心が現れるように修め、必ず師父に従って天上の家に戻ると思っています。

 弟子は師父の恩に深く感謝いたします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/3/27/440394.html)
 
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