姑は我が家の宝物だ
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文/広東省の大法弟子

 【明慧日本2022年5月12日】修煉する前、私は姑を敬遠していました。結婚当初から、姑は気の強い人だと気づいたからです。私の家は姑の家から遠いので、会うのは毎年正月の数日だけでした。ところが私が定年退職してから、高齢になった姑の面倒を見るために、私たち夫婦は姑の元に戻りました。一緒に暮らしている中、この環境でないと私はきっと多くの執着心に気づくことはできない、と実感しました。

 実は私は姑と仲良くしています。姑は背が高くて、髪の毛が真っ白ですが、どんな服を着ても容姿がきれいです。姑は強くて有能で、何をしてもてきぱきとして、地元出身ではない、ずんぐりした不器用な私のことを心から見下しています。

 夫の実家は中国の北の生活のやり方で、毎日麺類を手作りして、とても時間がかかります。それに、姑は料理についても、高い要求を持っています。前の家では野菜は普通に洗ってからフライパンに入れて炒めますが、今はいくつかのステップを経てやっとフライパンに入れることができます。まず重曹を溶かした水に30分以上浸して農薬を取り除き、洗った後に、生臭さを取るために湯引きする野菜もあり、下茹でした後にさらに冷水に浸して粘りを除く野菜もあって、粘りをとった後に余分な水分を絞らないといけない野菜もあります。前の家では、食事の準備にこれほど時間をかけることは絶対にありませんが、姑の機嫌を取るために私は我慢してしっかりその通りにやっています。しかし、料理をテーブルに出したら、また麺が柔らかすぎる、米は硬すぎる、塩が多い、野菜に火が十分通っていない、等々と姑に厳しく言われます。ある日、食事をしている時に夫は「美味しい」と言ったのですが、姑はすぐに「どこが美味しいのか」と不機嫌に言いました。

 夫の二番目の姉はよく実家に帰ってきて、姑に「今日は何を食べたの」と聞くと、姑はいつも私に背中を向けて、まともな食事をしていないと愚痴を言ったりします。私は何も知らないふりをしていますが、内心はつらいのです。たった3人の食事ですが、作るのは本当に大変です。

 姑の家にはいろいろな決まりがあって、最初、知らない私は何回もうっかりタブーに触れてしまいました。例えば、布団カバーを付けるために姑のベッドに立つと、姑は私が立っていたところをすぐ掃きました。またベッドの上に座って姑と雑談をした時、姑は深刻な顔をして、「あなた、旦那の布団の上に座ってはいけない」と言いました。それから、私は姑に目薬を差そうとして、姑がソファーに横になった時、お尻が姑の布団に触れたら、姑はすぐ不機嫌に布団を移動しました。

 出かける時、転ぶのを心配して姑の腕を支えようとしたら、姑は断って、私の手を叩きます。食事の時に、姑のお皿におかずを入れようとしたら、姑に断わられます。私が買った薬は「服用しても効かない」と言うし、目薬を買うと「使い心地が良くない、末っ子(夫の弟)が買ったほうが使いやすい」と言い、私が焼いたパンも「まずい、末っ子が焼いたパンが美味しい」と言います。

 私たち夫婦は姑と同居しているので、お風呂に入れることや爪を切ることなど、私たちがやるのは当然だと思っていますが、しかし姑には自分のこだわりがあります。お風呂は長女にやってもらい、足の爪を切るのは末っ子にやってもらいます。

 暖かい季節は、私はほとんど毎日の午後、姑に付き添って散歩をしています。他の老人に会ったら、よく「今どき、こんなに親孝行する立派な嫁もいるのか」と褒められると、姑はそれを聞いて不機嫌になります。

 姑はプライドが高いのです。おしっこを漏らしているため、ずっとおむつを使っています。おむつは洗って繰り返し使用できるタイプで、私はよく洗っています。ある日、夫の一番上の姉が家に来た時、私はおむつが入った洗面器を持ちあげたら、姑は洗面器を奪って、とても怒りました。そうだ、おむつを洗うのはいいが、人前でやってはいけない、と私は分かりました。

 私たちは姑と一緒に住んで、姑の生活費と薬代をすべて負担しています。姑は内心で全部分かっていますが、私たちに対する感謝や申し訳ない気持ちをねじれた形で表現してしまいます。例えば、姑がずっと服用している高価な薬がもうすぐ切れる時、私が買いに行こうとしたら、姑は「もう飲まない」と言って、実は金を惜しんでいます。一昨年の冬、姑が着ている綿入れの上着は少し長さが足りないのを見て、私は新しい綿入れを買ってきました。しかし鞄から出したら、姑はすごく怒って、「すぐに返品しなさい、返品できなかったら他のものに交換して、どうせ私は綿入れは要らないから」と言いました。

 二番目の姉はネットで姑のために綿いれのズボンを買ったのですが、姑は試着したら気に入らなくて、姉は「それでは、〇〇さん(私)にあげよう」と提案したのですが、姑は黙る態度で反対の意志を示しました。そして、とても古い綿入れのズボンを箪笥から探し出して私にくれようとして、姉は怒って姑を責めました。私は横で何も言っていませんが、心の中ではとてもすっきりして、姉が姑のメンツを潰したことにこっそり喜びました。

 そんな姑に、私の心はよくトゲに刺されたようにつらいのです。もしかして前世で、私は姑の娘だったとき、親孝行をしていなかったため、現世は補わないといけないのでしょうか。もしかして、前世での私は姑に対して責めたり見下したりしたので、現世は姑から同じ仕打ちをされているのでしょうか。

 こんな夢も見ました。目の前に四束のものが並んで、黒色の四角いものが二つ、白色で丸くて銭のようなものが二つ、上に「徳」と書いてあります。目が覚めてから、黒色は私の業力で、白い銭のようなものは徳だと分かりました。ものが四つあるのは、『轉法輪』に説いた「一挙四得」の道理の例えではないかと思いました。

 長年修煉してきた古い弟子として、姑との間にトラブルが起きたのはきっと私自身の問題に違いないと分かります。嫉妬心、恨む心、闘争心、人に言われたくない心、顕示心、焦る心、家事をやる時にごまかす、姑に媚びるという狡猾な心理など、葛藤の中で全部浮き彫りになりました。

 ある日、必ず心性を守ってしっかり自分を修めると思った時、頭の中で突然ある声が「なんだと、これがつらいというのか」と言いました。これは師父からのご教示だと分かりました。私が思っていることを師父は全部知っておられるので、肝心な時に一言のご教示を示してくださいました。その瞬間にすべての不満や悔しさは一掃して、師父についてしっかり修煉しようという決心、および胸いっぱいの幸福感だけが残っています。

 その後、『二〇一八年ワシントンD.C.での説法』で、恨む心について師父が説かれているのを読んで、突然悟りました。これはまさに私が直面している問題です!

 私と夫が帰郷する前に、姑の面倒を見ることについて兄弟姉妹が責任をなすり付け合っていました。私たち夫婦は姑の世話をするために1000キロも離れた家から帰郷した時、私は上から目線で姑と兄弟たちを見ていました。「たとえ兄弟みんなは姑の面倒を見なくても、私たち夫婦は決して傍観しない」と。特に周りから褒められて、私もいい気になりました。今にして思えば、実は私が姑の面倒を見るのは、親孝行のためではなく、顕示心、自分の人格の良さを証明したい私心のためだったのです。そのため、姑が私に感謝せずにあれこれとけちをつけているのを見て、恨む心を持つようになりました。恨む心を発見しても、それを除去する決心が足りなくて、今日までに至っています。幸い師父が肝心な時にご教示を示してくださり、今から断じて恨む心を除去したいと思います。

 しばらくして、恨む心の裏に嫉妬心があると気づきました。姑は末っ子を一番可愛がっていて、ずっと彼と一緒に暮らしたがっています。しかし、いろいろな理由で思うようにいきませんでした。地元出身ではない私が世話をしても、姑は余計に末っ子のことを思って、毎日末っ子がどのように可愛いかを言っています。特に近所のお年寄りたちが私を褒めてくれた時、姑は不機嫌な顔をして隣人たちの言葉を拒んでいるのを見て、私は内心で辛くて恨む心がこみ上げます。今考えると、私のすべての不快感は姑の私に対する態度から来ており、その態度をよく姑の末っ子に対する態度と比較して、ますます心のバランスが取れなくなります。比較するのは嫉妬心ではないでしょうか。

 実のところ、子供の多い家庭にとって、親の一人一人に対する感情はまったく同じになれないのは至極当然のことです。まして姑は私の夫に対する愛情もぜんぜん末っ子に対するものにも劣らず、表し方が違っていただけです。息子の嫁として、姑の自分の子供に対する愛を妬むなんて、それはどんなに汚い嫉妬心だろうか。

 姑の便で汚れたシーツを洗う時、なぜ姑の機嫌を損ねたのでしょうか。実は私の優しい態度の裏に不純なものを隠していたからです。「あなたのズボン、汚いね、私に迷惑をかけているのを知っているのでしょうか」と口に出して言っていないセリフがありました。私の中に悪意があったため、姑が怒るのは当然です。

 そして、姑の指示通りに食事を作る時、表面上は姑の好みを配慮していましたが、実は料理をテーブルに出した時も、「あなたの好き嫌いはこんなに面倒だ、あなたの世話をするのは本当に難しいことだ」と無言のメッセージを伝えました。表面上のフレンドリーな態度で心の中の悪念を隠していたため、洞察力の鋭い姑に見破られて、姑が怒るのも当然です。

 私は「善」をやり遂げていないだけでなく、「真」もやり遂げていません。生活の中で嘘をつかないように努力していますが、姑に対する温かさ、従順さは全部表面的なもので、偽善だと言っても良いぐらいで、姑は私の誠実さを感じられません。姑との付き合いの中で、私はずっと醜い心を抱いていました。私は姑に親切にしているが、姑は私を虐めていると意図的に周囲に告白するつもりはありません。

 二番目の姉が綿入れのズボンのことで姑に怒った時、私はどうして心がすっきりしたのですか。姉が私の言いたいことを言ってくれたからです。姑が嫁いびりすることを第三者に見られたからです。心の中にそんなに強い悪意があるのに、表面上、非常に寛容な態度を取ったのは偽善ではないでしょうか。「真」と「善」のかけらもありません。

 「忍」については、よく考えてみると、姑との生活の中でほとんど「忍」を修めていません。姑はどうして私の作った料理にいつも不満を持っているのですか。それは、私がよその土地から嫁いで来た人だからだと言う理由だと解釈しています。実はこれは外に向けて探したことになってしまっています。深く反省した時、問題は私の考え方にあると気づきました。

 長年、姑と一緒に暮らしていないため、急に夫の実家に帰り厳しい姑との生活になかなか慣れていません。毎日姑に指示されている家事に対して、内心はずっと反発しています。特に食事の作り方は面倒くさくて、毎日多くの時間をかけているため、イライラしました。姑の要求通りにしなければならない時は気が進まず、焦って、ごまかそうとしました。姑が私の問題を指摘した時、私は口では認めていますが、内心は不服でした。

 そのように反省したら、姑のいろいろな言動は私の心を磨いて、私に「忍」を修めさせているとふと、悟りました。自身の多くの私心を除去して再び客観的に姑を見ると、実は姑には何の問題もなく、伝統理念に基づいて生活し、嫁を教育しているだけだと初めて気づきました。ただ、党文化の変異した考え方に影響された私は、伝統文化の中での家庭、倫理の概念があまり分かっていません。

 実は、姑が私に教えているのはすべて正統文化のものです。例えば年長者や旦那の布団の上に座ってはいけないこと、下着はベランダにではなく洗面所に干すべきなど、みな伝統文化の中の長幼の秩序、尊卑の秩序、陰陽の秩序を守る作法です。それを理解してから、長い間に存在した恨む心はつい無くなりました。

 姑が本当に私の修煉を助けてくれていることが分かってきました。姑がいなければ、私の無知と醜い執着心を暴露することもできません。実家に帰ってからの日々、表面上、私が姑の面倒を見っているようですが、実は姑が私の修煉を見守っていました。振り返ってみると、師父の按排に対する感謝で胸がいっぱいです。

 私が少しずつ変わっていくので、姑も変わりました。知らず知らずのうちに、姑の目つきと話し方が優しくなり、挨拶したら返事もしてくれて、食卓で指摘事項をあまり言わなくなり、出かける時、私が姑の腕を支えても、姑はもう私の手を叩いたりしません。

 心の中の不満を放下して姑を改めて見ると、姑は本当に立派な女性だと思いました。姑には伝統的な女性の「三従四徳(さんじゅうしとく)」の風格が残っています。「三従四徳」とは、古い時代に女性が従うべきとされた三つの道と四つの徳といいます。三従は「家にありては父に従い、嫁に出でては夫に従い、夫死しては子に従う」の三つ。四徳は婦徳(女性らしい道徳)・婦言(女性らしい言葉遣い)・婦功(家事)・婦容(女性らしい身だしなみ)の四つ。姑は一生よく働き夫を支えて、誰の悪口も言わず、家をしっかり守っています。このような立派な教育は子供たちだけでなく、嫁である私にも大きな恩恵を与えてくれました。

 姑は字が読めず、家族の事情で中国共産党の迫害を受けたことがあり、生活は苦しかったのですが、中国共産党の洗脳害毒を受けたことも少なかったです。法輪功真相を素直に受け入れて、法輪功のお守りを十数年の間ずっと身につけています。年を取って体のバランスがうまく取れなくなって転びやすくなって、何回も転びましたが怪我をしたことはありません。一番不思議なのは、一昨年、寝室で起きた火災から無傷に生還したことです。

 その晩、姑がかけた布団、下に敷いた毛布などは真っ黒になって、触ったらすぐにフットボールほどの大きい穴が開いたのですが、姑の体に一つの傷もありませんでした。普段、大法と師父を心から尊敬しているため、師父に守られたと思います。姑は大法の法理が正しいと思って、私の修煉を応援してくれています。毎晩寝る前に「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と大きな声で何回も唱えて、しかも唱える前に必ず恭しく手を洗います。

 私はいつも思うのですが、「我が家は四世代同居の大家族で、家に響いた年長者の『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』を唱える声は、この家の子孫にどんなに大きな福をもたらしていることでしょう」

 以前、姑と一緒に散歩していた時、後ろから隣人の声が聞こえて、「見て見て、この家の子供たちは、親を宝物のように大事に養っているよ」と聞こえたことがあります。当時は、隣人が我々の親孝行を褒めているとしか思っていませんでした。修煉の角度から反省して姑との関係を見直すと、今になってやっとその中の真意を悟りました、姑は本当に私の修煉を助けてくれる宝物です。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/3/23/429446.html)
 
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