正直に内に向けて探す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年8月21日】大法を修煉してから、私は健康になり、家族円満となりました。職場ではこつこつとまじめに働き、仕事を選ばず、同僚と争わず、仕事も気に入っていて、どんな場合でも他人のことを優先に考えることができるようになりました。親族や友人と仲良くなり、子供の学業も向上し、私の仕事環境も良くなり、いつの間にか一つの観念が形成されました。それは、大法を修煉しているので、すべてが良くなる、必ず良くなるはずだ、という観念でした。

 長年にわたり、この観念によって、私は無意識のうちに修煉によって得られる恩恵をより重く見るようになりました。時には、友人や親戚を説得して修煉させ、彼らにもその恩恵を受けさせようとしました。これは、私が大法の修煉に対する誤解で、自分の修煉が誤った道に入っていました。自分の関を上手く乗り越えられない時には、ネガティブな気持ちになりました。また、病業の関を乗り越えられない、執着を捨てられない、仕事がうまくいかないなどさまざまな困難に直面している同修を目にした時「大法修煉者なのに、どうしてこのようになってしまったのか? どうしてあのようになってしまったのか? これはどのように修煉したのか?」と思うことがよくあります。 

 先日、病業に苦しんでいる同修から聞いた話ですが、彼女は一度ショッピングモールに行き、ジャガイモを買いましたが、ジャガイモを買い物用のビニール袋の半分ぐらいになるまで選んで詰めた時、店員が新たにジャガイモを持って来て並べているのを見て、自分が先程選んだジャガイモを元に戻して、改めてビニール袋の半分になるまでジャガイモを選んで詰めたということでした。帰宅した彼女は、自分が間違ったことをしたことに気づき、もうこのようなことをしてはいけないと認識したそうです。しかし、彼女は以前、自分がやったことは間違ったことだとは思っていなかったそうです。最近、彼女は法を良く学んでいたので、どう修めるかが分かるようになったと言っていました。

 この出来事を聞いて、私は「大法弟子として、これぐらいのこともできないのか? 家に帰ってからやっと自分が間違っていたことに気付くのか」と同修に対して私的な考えを抱くようになりました。

 私は自分のこの不平な心理を捉えて、自分自身に「なぜ不平を感じたのか?」と問いかけました。それは嫉妬心、他人を見下す心、法を以って人を量る心、自分の修煉が良く出来ていると感じる心でした。ちょうど、明慧ラジオで同修の書いた交流文章を聞きました。ある重い病業に見舞われている同修が1年間、法を学び暗記していたそうです。しかし身体には何の変化もなく、ただ着実に修める状態を保つことが多くなってきたということでした。これは私の心を大いに揺さぶりました。自分のこれらの執着心の背後に隠されている、修煉しているので何でも良くなるはずだ、という頑固な観念を見つけ出すことができました。実際良い結果は法に同化したから得られたのであり、修煉者が自分の遭遇した関や難を師父の法を頼りに乗り越えてから得た悟りです。人それぞれに異なる関や難があります。その現れ方も千差万別です。着実に修める状態を維持することが出来て、自分を修煉者としてみなして、着実に修めれば良くなります。人心を放下し、法に同化すれば、法は修煉者にその次元のすばらしさを見せてくれます。

 今日、私はある小さなスーパーの入口の外側に並べられているスイカを選び、店内に持ち込んで重さを量ってから代金を支払おうとしました。その時、商品棚の上に置かれているスイカが私が選んだスイカよりもっと良さそうに見え、それを買いたくなりました。選んだ重さを量って値札を付けた後、スイカに押されてできた深い凹みがあるのが見えましたので「何でスイカがこんなになっているの?」と店員に聞きました。店員は「それなら値引きしてあげます」と答えました。私は「このスイカをやめて、あのスイカを買いましょう」と言いました。そしてその店員は、商品棚の上にあったスイカを量ってくれました。 

 支払いを済ませた後、とても気まずく感じました。しばらくの間、買い物する時、選り好みせずに買えるようになっていたのに、なぜ今日は出来なかったのでしょうか。先程、スイカを買う時に生じた念を思い出すと、自分が損をするのを恐れて、良いものを買おうとしただけじゃないでしょうか? 自分はジャガイモを選んでいた同修と何の違いがあるのでしょうか? 利己的で同じ心でした。そこで修煉は厳粛であることについて、少し認識出来るようになりました。買い物する際に選ばずに買うことが出来たということは、その行為に対して、自己コントロールがたまたま、出来ただけであります。しかし、心性上では、その次元の法に同化されていないところがもう少し残っていました。つまり人心が完全に取り除かれていませんでした。今日はまさにその現われではなかったのでしょうか? 法に則ってない同修のやり方を耳にした時、自分を探さず、自分とは関係ないと思っていました。

  私はとても悲しくなりました。どうしていつも他人の問題を見た時に自分を探すのを忘れるのでしょうか。自分にその心がないのに、師父が聞かせたり、見せたりしてくださるのでしょうか。本当に師父に申し訳ないと思いました。師父の教えを忘れてしまい、また、師父に心配をおかけし、再び悟らせていただきました。

 今回は正しく探し当てたかもしれません。夜、発正念をしていた時、体がとても軽くなり、両腕が火炉のように熱く感じられました。また自分が他人よりよく修めているということは、ちょうど自分がよく修めていないことを示すということであると、しみじみ感じました。同修がジャガイモを選んだことを聞いた時、まず、自分に損をすることを恐れる心があるのかどうかを探し、もしあるのなら、すぐにそれを修めればよかったのです。

 同時に、同修の向上を喜び、同修の正念を加持し、同修が師父に面倒を見られながら、ますます良くなることを信じるべきです。今後、何かを聞いたり見たりしたら、必ずまず正直に自分を探し、それに相応する良くない心を取り除き、修煉がよくできている弟子になり、師父におかけする心配が少なくなるように努力します。

 最近の僅かな体験です。同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 師父の慈悲なる済度に感謝いたします! 合掌。

 同修のみなさん、ありがとうございます!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/7/28/446857.html)
 
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