経文「師父の家族に正しく接する」を再読して気づいたこと
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年4月26日】初めて師父の経文「師父の家族に正しく接する」を読んだ時、私は「これは師父のご家族と接する機会のある一部の同修に向けて書かれたものだ」と思っていました。そのとき私は心の中で、「どうしてその同修たちは師父の家族にそんな対応をするのだろう? もし自分だったら絶対にそんなことはしないのに」と考えていました。その頃の私は、この経文の内容をどこか他人事のように感じていて、自分とは関係ないと思っていたのです。

 ところが、最近になって改めてこの経文を読み返す機会があり、新たな気づきを得ました。私はこの経文が、師父の家族と接点のある同修だけに向けられたものではなく、すべての大法弟子に対して、師父が法を通して示された修煉における基準であると悟ったのです。

 師父はこの経文の中で、私たちが今世で大法弟子となるために、また衆生が救われるために、輪廻転生の中で師父と大法弟子との間に神聖な縁が結ばれてきたことを説かれました。多くの大法弟子は、過去世において師父の直系の家族であったこともあると記されています。経文で師父が教えられている「師父の家族に正しく接すること」は、実は今そばにいる同修たちに対する態度についても含まれているのだと悟りました。というのも、私たちの周囲の同修の中にも、かつて師父の家族や親族だった方々が数多くいるかもしれないからです。そう考えると、私たち一人ひとりが、自分の心を振り返り、同修に対して人心や人間的な考えで接していないかを省みる必要があります。もしかすると、私たちは知らず知らずのうちに、かつて師父の家族だった存在に対して人心で接してしまってはいないでしょうか? 特に、能力のある同修に対して、過度に褒めたり、崇拝したり、依存したりしている場合、それはまさに師父が経文の中で警告されているような行動に該当するのではないでしょうか? そういった考えや行為は、その同修の修煉に対して大きな妨げとなり、妨害を引き起こす要因になってしまうのです。

 明慧ネットに掲載された交流文章の中でも、次のような内容が述べられていました。「とても残念なことです。残念なのは、彼が自身の業力のせいで倒れたのではなく、同修たちが作り出した『崇拝という霧』の中で、邪悪がその霧に紛れて彼を迫害し、彼の肉体を奪ってしまったのです」

 実は、師父はすでに海外での説法の中で、この問題について何度も説かれました。ただ、私たち自身がその法と照らし合わせて、厳しく自分を律することができていなかったのです。私たちは「善」を修める者ではないでしょうか? 明らかに、それをすることが自分にも他人にも害を及ぼすと分かっていながら、なぜ執着を捨てきれないのでしょうか。往々にして、肝心なときになると、人心・人念(人の考え)・人情が優位に立ち、理性をもって法に照らして判断することができなくなってしまうのです。

 もう一歩踏み込んで考えてみると、師父が経文で言及されている「人心」「人念」には、私たちが一部の同修を見下したり、苦手に思ったり、ときには嫌悪し排斥してしまうような心も含まれるのではないでしょうか。あるいは、同修同士で小さな派閥のようなグループを作り、3人一組、2人一組と内輪だけでつるみ、それ以外の人を遠ざける、こういった現象も見られます。こうした行動は、もしかすると本人に悪気があるわけではなく、常人社会で身についた癖が無意識のうちに出ているだけかもしれません。あまりに自然になってしまい、自分でも気づけなくなっているのです。しかしながら、これらの行為は他の空間では実体として「間隔の物質」を生み出します。こうした変異した人心・人念・人情から形成された物質は、同修への妨害となるだけでなく、自分自身の空間場においても「腐敗物」となって蓄積されていきます。

 法にかなっているものこそが美しいものであり、法にそぐわない一切の考えの背後には、旧勢力や共産邪霊の按配・操作が潜んでいます。彼らは機が熟したと見れば、すぐに行動を起こして迫害に移ります。軽ければ妨害にとどまりますが、重ければ肉体を失うことにまで至るのです。修煉とは非常に厳粛なものです。師父の広大なる慈悲によって、私たちはこれまで何度も悔い改め、過ちを正す機会を与えられてきました。だからこそ、これからはより一層、自分に厳しく、すべてを法で量り、人心・人念・人情ではなく、法に基づいて物事を判断・処理していかなければなりません。私たちが共に最後の道を正しく歩んでいけるよう、互いに励まし合いながら修煉していきたいと心から願っています。

 この文章を書く過程そのものが、私にとって自分を深く見つめ直す機会となりました。一文一文を書くたびに、その言葉を自分に当てはめて考え、自分も同じ状態にあるのではないかと省みて、心性を見つめ直し、内に向かって修める時間となったのです。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/6/492358.html
 
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