ーー法輪大法の病気治療と健康保持の奇跡的効果
文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年10月3日】麻痺は、随意的な運動機能の低下または消失であり、神経系によく見られる症状です。麻痺は本人が苦しむだけでなく、家族の負担や苦しみも大きいものです。苦痛に耐えていくことを諦め、極端なケースでは自らの命を絶った人もいます。恐ろしい病気です。
法輪功を修煉する人の中には、修煉によって車椅子に別れを告げて再び立ち上がり、新しい人生を手に入れた半身不随の患者が数多くいるのです。
(前文に続く)
七、ベトナム人留学生:半身不随から回復
2011年、まだ若かった安彦さんが友人とふざけて遊んでいた時のことです。友人は誤って彼女を突き飛ばし、走ってきた車に衝突させてしまいました。深刻な交通事故となり、彼女の生活は脊椎の痛みが伴うものとなりました。歩くときだけでなく、笑うときや呼吸するとき、そして咳をするときにさえ痛みが走りました。治療を受け続けても、体の半分が正常に動きません。
ベトナム出身で、ホーチミンの韓国大使館に勤務していた32歳の安彦さんは、2015年に韓国に留学し、韓国江原大学の大学院生として韓国語文学を学んでいます。彼女は韓国に来て、より良い治療を受ければ、痛みが和らぐと思っていました。しかし、事実は予想と違い、普通の歩行は彼女にとってまだまだ手の届かないところにあるようでした。
実は、安彦さんの生活に伴う苦痛は、脊椎だけではありません。先天性の肘関節の変形で、彼女は腕を伸ばすときにも苦痛を感じ、動かすだけで痛み、重い物を持ち上げることもできず、日常生活はとても不便なものでした。
2015年のある日のことです。安彦さんは、ルームメイトのベトナム人から法輪功を紹介されました。ベトナム語で書かれた『轉法輪』の表紙を見たとき、自分は修煉と縁があると感じたそうです。「その時の私は人生の目標を見つけた感じがして、興奮して涙が出ました」
幼い時から一瞬たりとも苦痛から抜け出すことができなかった彼女は、修煉して体が奇跡のように回復しました。煉功動作にある腕伸ばしや背中反らしなどの動作も慣れるにつれ、体の痛みが少しずつ消えていきました。3カ月後には痛みがすべて消えただけでなく、普通に歩くことができるようになり、正常な生活を送ることができるようになりました。
安彦さんは「私は真、善、忍の原則に従って、本当の良い人になりたいです。また、周りの縁のある人に法輪大法がどんなに素晴らしいかを伝え、大法を誹謗中傷する嘘を決して信じてはならないと伝えたいです」と言っています。
法輪功を修め、本当に良い人間になろうと決意した安彦さん |
八、台湾の女性:暗い人生を一変させた奇跡
彩銘さん (左) と、お世話になっていた介護の頼さん |
2008年、台湾の彩銘さんは全身性エリテマトーデスと診断され、医師の指示に従いステロイド剤を服用しました。その結果、骨量の減少で重度の猫背となり、発症前より12センチも背が低くなりました。歩けなくなってしまった彼女は車いすで移動することになり、胃潰瘍やドライアイ、便秘、むくみなどの後遺症が次々と現れ、腎臓も透析寸前となってしまいました。
彩銘さんは、2013年9月1日から9日間の法輪功学習クラスに参加し、その後、煉功点に行って煉功を始めました。煉功を始めて5日目に、彼女は正常に排便できるようになり、1ヵ月後には徐々に薬を飲まなくなりました。そして7ヵ月後には車椅子から解放されただけでなく、4階まで自力で登れるようになりました。彼女はだんだん背が高くなり、歩き方も安定してきました。彩銘さんは「二度目の命を下さった大法の師父に感謝しています!」と感激の言葉を述べました。
九、『中国経済時報』による報道:私は立ち上がった!
1998年7月10日、『中国経済時報』は「私は立ち上がりました」と題する記事を掲載しました。主人公の謝秀芬さんは医療事故で脊椎に損傷を負い、16年間半身不随になっていました。しかし法輪功を修煉してわずか3カ月、奇跡的に立ち上がりました。当時53歳だった謝秀芬さんは、「私はまるで飛び立とうとする小鳥のように軽く、普通の人も私についてこれません。これは、法輪大法を修煉して私の身に起きた紛れもない真実です!」と嬉しそうに言いました。
『中国経済時報』 1998年7月10日の報道 |
十、優秀な学生:3日間の煉功で、麻痺していた彼女は歩けるようになった
金麗鳳さんは、1962年10月2日に遼寧省葫芦島市寺児卜郷新地号村に生まれました。大学を卒業し、日本語と英語が堪能な才女となりました。楊家杖子鎮の高校で3年生の英語教師をしていた彼女は、学校で何度も優秀な教師に選ばれ、その後、渤海船舶工業学校で英語教師として働くことになりました。彼女の夫は、渤海船舶工業学校の教務主任です。彼女のキャリアは成功し、幸せな家庭を築いていました。
金麗鳳さん |
しかし金麗鳳さんは36歳で息子を出産した年に、不幸にも腰椎に親指2本分の亀裂が入り、下肢が麻痺してしまいました。瀋陽や北京などで治療を受けても効果がありませんでした。見舞いに訪れた親友たちに、絶望していた彼女は「このままベッドで死ぬのを待ちます」と言っていました。
1999年3月、1年半ほど半身不随になっていた金麗鳳さんは、学校の先生に法輪功を紹介されました。彼女は試すつもりで法輪功を学ぶことにしました。姑に子供をみてもらい、彼女は2人に支えられて、途中4回の休憩を挟んでやっと法輪功の煉功点に着きました。翌日、彼女たちは2回休憩して煉功点に着き、そして3日目に奇跡が起こりました。彼女は、普通の人のように自分の足で歩いて煉功点に行ったのです。
こうして彼女は『轉法輪』を読み始め、法煉大法を修める道を歩み始めました。人に会う度に、彼女は法輪功が自分に2度目の命を与えて下さったと言っていました。修煉によって彼女の思想も大きく変わり、以前とは別人のようになりました。学校では、誰もが手につけようとしない汚い仕事やきつい仕事を彼女は引き受け、トイレ掃除やゴミ出しも彼女の日課となりました。
中国共産党による法輪功への迫害が始まっても金麗鳳さんは信念を貫き、法輪功の真実を語ったため、何度も不法に拘束されました。2001年7月16日、金麗鳳さんは勤務中に公安当局に連行され、葫芦島拘置所に送られました。巻き込まれるのを恐れた彼女の夫はプレッシャーをかけられ、彼女と離婚しました。
拘置所では、彼女は自分に対するあらゆる迫害に抵抗するため、ハンストを行いました。6日間のハンストの中、警官らは手段を選ばずして彼女に荒々しく食事を与えていました。2002年2月12日、ハンスト7日目の金麗鳳さんは挿入されたチューブに肺を傷つけられ、口と鼻から出血し、迫害によって死亡しました。
(続く)