文/台湾の大法弟子
【明慧日本2022年10月20日】最近、同修の間で「怨みの心」についての交流をよく見かけます。多くの同修は、自分の「怨みの心」が強いと自覚してはいるものの、なかなか取り除けないと話しています。一部の同修は「最近、同修の大多数が遭っている病業の関は、『怨みの心』によるものだ」と認識しています。その怨恨を生むのは、家族との感情的な対立、同僚同士の疑う心、または同僚からの嫌みなどの一言かもしれません。
私が同修に「なぜ怨みが生じるのですか」と尋ねると、「相手に思いやりがないからです。相手の話し方が悪いからです。もしそうでなかったら、それは相手に誤解が生じたからです」と返答します。私はそれを聞いて「すべて外に向けて探しているからだ」と感じました。もちろん同修も「我々は修煉者ですから、外へ向けて探してはいけません。執着を放下すべきです」と答えることもあります。しかし、手放すべき執着さえ見つかっていないようにも聞こえるのです。
トラブルがなければ、向上する機会がありません。なぜ、トラブルが起きたのでしょうか? それは「耳が痛い話は聞きたくない、自分の心に寄り添う言葉だけを聞きたい」からです。それらは自分自身の執着心があるためだと思います。例えば、家族や子供、同僚、同修が自分自身の考えと違う言動をすると、「相手は自分のことを否定している」と感じたり、「相手は強情で独善的だ」とさえ感じたりするのです。常人の常識からすれば、そういうふうに考えるのが当然です。しかし私たちは修煉者ですから、常人の理とは逆なのです。いつも相手が良くないと思うのは、実は相手が自分の考え方と違うからです。だからこそ、相手が良くない、相容れないと感じるのです。ということは、「耳が痛い話は聞きたくない」ということなのです。
常人が「相手の立場になって考える」ことができるようになると、相手を批判したり、相手が自分と同じ考え方をするべきだと思ったりしなくなります。そして私たちは修煉者ですから、より厳しい要求があります。自分の心が「揺らいでいる」と気づいたら、すぐにどの執着心が出たかを探し、「どこが間違っているのか」を知ることができます。日常生活で起こる小さな出来事の多くは、その瞬間の「心の揺らぎ」に注意しないと、どこに問題があったのか分からないのです。同修はよく「私が何を言ったから相手が怒ったのか分からない」、「私がそこまで言ってないのに、なぜ相手が不機嫌になったのか分からない」と言います。実際、私も以前はそうでした。かなりの人を怒らせてしまい、トラブルになったりしていました。その後、内に向けて探すことができるようになってからは、自分自身の問題点を見つけることができるようになりました。自分の言動に常に気づくことができなければ、自分の細かい問題までは、なかなか見つけにくいと思うのです。
また私たちは「問題があった時、率直に言ってもらっていれば、トラブルは発生しないでしょう?」と言うのです。しかし問題は往々にして「耳が痛い話しなど聞きたくない」ことにありますが、誰が率直に言うのでしょうか。
私たちは、こうして躓いたり、転んだりしながらも、徐々に「耳が痛いことは聞きたくない」という人心を、少しずつ正すことができるのです。
以上は個人の悟りであり、同修とともに心性を向上していきたいのです。不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。