この1年間、着実に修煉した体験談
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文/河北省の大法弟子・飛旋

 【明慧日本2022年1月24日】私は42歳の女性です。1997年から法輪大法を学び始めました。長年、「法輪大法は素晴らしい! 師父の仰ったことは全部正しい」という認識までしか留まっておらず、確実に自分を修めることはできませんでした。しかし、この1年で、少し向上した気がしましたので、修煉体得を皆さんと分かち合いたいと思います。

 一、よく法を学び 煉功を真剣に取り込む

 私は長年、自分を本当の修煉者とは見做せず、修めているか修めていないかの状態が続いていました。いつも、大法の本を読むときは修煉者になりますが、本を読まないときは常人に戻り、常人と混同していました。この1年、私は同修の助けを得て、一緒に我が家で集団学法をしています。明慧ネットにもアクセスできて、同修の交流文章を読むことができ、多くの恩恵を受けました。

 同修から、「両足を組んで法を学び、跪いて法を聞く」という真面目なやり方の話を聞いて、「確かに、このような素晴らしい大法に対して、最も敬虔な心を持って学ぶべきだ。もし、師父が私たちの目の前で説法してくださったら、私たちはどの態度を取るのでしょうか? 大法以外のことを考えてはいけないでしょう」と私は思いました。

 それから、私は法を勉強するとき、両足を組むようにしました。どうしても辛くなって、法の勉強に支障が出ると、足を下ろしますが、しばらくして、また足を組んで勉強し続けることにしています。学法のとき集中し、ほかのことを考えていると気づいたら、すぐに法に戻し、法をゆっくり読むようにしています。「法を読むときも、煉功動作と同じように緩やかに、ゆっくりと、まろやかであること。人為的に何か法理を探すようなこととしないこと」を悟りました。心を込めて学法すると、師父が啓発してくださり、ふとその法理を理解できるようになるのです。

 以前の私は、煉功を重視しておらず、あまり煉功しなかったのです。

 煉功するようになった当初、坐禅を20分ほどすると足が痛くなり、そのうち心が乱れ、足を降ろしたくなり、自然に手は合掌してしまいました。このことから、「向上させる時期が来た」と思うようになりました。その後、師父の各地での説法を読んで、「足が痛むことは良いことだとわかり、苦を嘗めることは業を滅することで、向上する機会だ」と理解しました。このように考え方が変わると、足が痛くても心が乱れなくなりました。「足の痛みは業を消去することだ」と思うと、1時間足を組んでも、今まで感じていた痛みがなくなり、とても心地よく坐禅することができました。足を組んで学法しているので、そのうち、私は第5式の功法を長くできるようになりました。

 ある日、私より2歳若い同修が「一緒に学法をしたい」と、私のところへ訪ねてきました。話を聞いたところ、この同修も私と同じように修煉が疎かになっている状態だとわかりました。そこで、私たちは相談して、「昼間は各自の仕事をし、夜に一緒に『轉法輪』一講を読んだ後、動功を煉る。第5式の功法は、各自の家で時間を見つけて行う」と約束しました。

 第2式の功法を煉るとき、私は手がとても重いと感じ、しばらくして手が段々下へ降りていき、気づくとすぐ腕を頑張って上げますが、数秒間でまた、下へ降りていくのでした。このように上げ降ろしを繰り返して、1時間堅持し、最後までやり切るのでした。

 しかし、私は心から「煉功することは辛い。したくない」と思っていました。この心は良くないとわかっているので、「私の主元神は神であり、本性は純真で善良である。もし、主元神は煉功するなら、どんな気持ちで煉るだろうか? きっと心の底から煉りたいのでは」と考えました。

 それで、私は「煉功をしたくない心は本当の私ではない」と、観念を変えました。煉功をするとき、心からやりたい気持ちを持って、「煉功は大法と同化することで、自分の小宇宙の生命に対する責任だ。それらの生命は、『煉功したい、法と同化したい、法に溶け込みたい』と考えているのだ」と思うようになりました。

 それから、不思議なことが起きました。第2式の功法を煉ると、腕が軽くなり、以前の重い感じがなくなりました。「修は己にありて、功は師にあり」[1]。師父は心性が少し向上した私を見て、この関を乗り越えるように助けてくださいました。師父は時々刻々私達を見守ってくださるのです。

 二、家庭の小さな出来事

 昨日の午後、息子が学校から帰ってきて、「今日、ポケットが浅いズボンの制服を着替えたせいで、鍵をなくした」と言いました。息子の話を聞いて、私はすぐ息子の考え方に従い、「なくしたのなら、その合鍵は作れないから、持たなくていい」と言ったのです。

 そして、私は「探しに行けばいいじゃない」と言いました。「遠いから、行かないよ!」と答えた息子に、「どうして探さないの。その鍵には住宅小区のカードがついているので、拾った人はすぐどの家の鍵かわかってしまうよ」と言いながら、私も不安になりました。

 私は料理をしている途中だったので、夫に変わってもらい、息子と一緒に通学路に沿って鍵を探しに行きました。しかし、見つからなかったのです。特に学校が終わる時間だったので、街は多くの人で混雑しており、息子は「もう見つからないよ。帰ろう」と言いました。この時、私は「修煉者には偶然に出会うことはない。なぜ、こんなことが起こったのか」と思い、師父に「どうか、鍵を見つけてくださいますように」とお願いしました。そして、息子に「師父に助けを求めましょうね」と言うと息子は頷き、同意しました。

 帰宅して、主人に「見つかったか」と聞かれたので、「見つからなかった」と答えました。「きっとなくしてないよ。ダウンコートのポケットに入っているんじゃないか」と言われました。息子のダウンコートのポケットを探すと、本当に入っていました。息子は「お母さん、僕はずっと、法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしいを念じ続けていたので、見つかったのかもね」と言いました。

 この出来事に対して、私は自分の一つの念、一つの考えを振り返ってみました。鍵をなくしたと聞いた途端、常人の考え方と同じようになりました。大法弟子としては、まず「修煉者は自然に任せることを重んじるべきです。自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません」[1]と考えるべきですが、私の第一念、つまり最初の考え方の間違いで、次に続く考え方も行動も大法に則ることができませんでした。その上、息子に怒って、善も忍もできませんでした。

 鍵を探す過程も心を修める過程でした。

 師父の「あらゆる人心は障碍なのです」[2]が頭に浮かびました。もし、最初の一念が自分は大法弟子であると思い、師父の説法を思い出すことができれば、自分の考えが正しいかどうかがわかります。時々刻々、確実に自分を修めるべきです。

 師父の按排に感謝します。師父の言うことにしっかり従えば一番良い結果になるとわかりました。翌日の煉功のとき、「内に向けて探すべきで、外に向けて探しても探し出せない。内に向けて探すことは大事だ」と、師父がまた啓発してくださいました。

 三、大法の資料を制作する過程で自分を修める

 2020年の新年、疫病が突然やってきました。私たちの地区の大法弟子は衆生を救い済度の心を持って、「まだ救われていない命がたくさんあるのだから、大法の資料をより広い範囲に広め、救われるチャンスを与えたい」という思いがあったのです。しかし、まさにこの時、地区の修煉者数人が中国共産党当局から嫌がらせを受け、連行される人もいました。そこでしばらくは、大法の資料を作る人がいなくなりました。

 ある同修がこのことで、心が揺れ始め、持っているプリンターや大法の書籍を私の家に持ってきました。その後、私は同修から法輪大法に関する内容を紙幣に印刷する(真相紙幣と呼ばれる)方法を教えてもらいました。当時、私は多くの人心があり、プリンターがうまく印刷できないと、心臓がバクバクして、どうしたんだろうと心配になったのです。頭の中はプリンターの問題だとばかり思いました。自分自身の問題であるとも思いましたが、やはり習慣的に外に向けて見る思考様式になっていました。

 1年の修煉を経て、「すべてのものは生きており、プリンターやパソコンには何の問題もない。その現れた問題はすべて仮相で、すべて私自身の問題なのだ」と学びました。その後、大量な真相資料を作らなければならないので、小冊子を作成するHPのプリンターに買い換え、真相紙幣を作るプリンターをほかの同修に渡しました。

 現在、昼に出勤しなければならないので、私は時間があれば、大法の内容の小冊子を作って、同修に提供しています。私は法の中の一粒子だから、全体の必要に応じて協力すべきだと思っています。

 修煉の道のりは厳しく、常人の念を正念で戦い、転びながら前進し、尽力で正しく歩んで行きたいと思います。三つのことがまだまだよくできていませんが、師父を信じて、向上したいと思っています。衆生を救う心、大法に同化する心、師父の真修弟子になる心を持っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/2/434748.html)
 
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