文/陸文
【明慧日本2024年2月25日】文天祥(ぶん てんしょう。1236~1283年)は、中国南宋時代の大臣であり、その地位は宰相にまで昇進しました。彼は清廉な公務員でした。元軍の侵略に対抗する中で、彼は非常に苦難の時期を経験しました。景炎3年(1278年)に戦闘で敗北し、元軍に捕らえられました。彼は元の将軍である張弘范の降伏の誘いを拒否し、自分は宋朝の「状元宰相」であり、死をもって忠義を尽くさなければならないと考えました。後に殺害され、偉大な民族の英雄となりました。彼の多くの詩や文章が後世に伝えられており、彼の節操は千古を照らしています。これが一般に知られている彼の側面です。彼の晩年に道家の高僧に出会い、「大光明正法」を修行したことについては、ほとんど知られていません。以下、詳細について紹介します。
偶然にも、「分類古今筆記精華」という書物を手に入れました。別名を「古今筆記精華録」ともいいますが、作者の名前は明記されていません。この本の「巻二十」には「文文山遇仙」という一篇が含まれています。しかし、文言文(古典的な中国語で書かれた記事)であり、さらに句読点もないため、直接引用するのは適切ではありません。そこで、以下に要約します。
宋の時代の文天祥(称号は文山)は、彼の「指南後録」の中で、道家の高僧である「霊陽子」という人物に出会ったことを記述しています。彼は、霊陽子から道家の学問について教えを受けました。
事後、文天祥は、自分の感情を表現する詩を作りました。「昔我愛泉石、長揖離公卿。結屋青山下、咫尺蓬与瀛:至人不可見、世塵忽相撄。業風吹浩劫、蝸角争浮名。偶遇大呂公、如有夙世盟。相従語寥廓、俯仰万慮軽。(昔、私は泉石に愛着し、公卿を離れ、緑の山の下に家を構え、わずかな距離で蓬莱と瀛洲(ほうらい・えいしゅう。古代中国において、仙人の住むという東方の三神山)を眺めました。至人(しじん。道を修めてその極致に達した人)に出会うことはできず、世俗の塵(ちり)に交じりました。功名を競い求める中で、風は荒れ狂い、蝸牛(かぎゅう。カタツムリ。自身の過去の名誉を背負って蝸牛のようにゆっくりと進む例え。名誉を追い求めることの焦燥感や虚無感を表現する)のように名誉を追い求めます。偶然、大呂公(霊陽子のこと)に出会い、前世の約束があるかのように感じました。共に会話し、万事を軽く見ました)」
文天祥はこの詩の中で、かつて喧騒を離れて山中に隠棲(いんせい:俗世間から離れて、静かに暮らすこと)しようとしましたが、高僧に出会えず、世俗に戻って名誉や功名を追求する中で、霊陽子との出会いが大きな教訓となったことを語っています。
数年が経過した後、文天祥は別の詩を書きました。この詩の題序(序文)に基づいて、その本の編纂者は、これが文天祥が捕らえられた後、牢獄で功能がある人に出会った後に書かれたものだと考えています。しかし、この編者自身が修煉しておらず、功能がある人がどのようにして牢獄に入り、文天祥に修道の法を教えたのか理解していません。実際には、牢獄を無視し、自由に行き来できる功能がある人は珍しくありません。
以下は、文天祥が牢獄で「功能がある人に出会い、大光明正法を指示され、それにより、生死の境を超越するかのようになった!」と述べた部分です。
そこでも、彼は詩を書きました。「誰知真患難、忽悟大光明。日出雲俱静、風消水自平:功名幾滅性、忠孝大労生。天下惟豪傑、神仙立地成。(真の困難を誰が知るでしょうか。突然、大いなる光明を悟りました。太陽が昇り、雲も静まり、風が消え、水は自ら穏やかになります。名誉と功名は本性をほぼ失いますが、忠義と孝行が生命に大きな功績をもたらします。天下には本当の勇士がおり、神仙が地上で立ち現れます)」
もし、文天祥の前の詩が彼の啓示によるものならば、この後の詩は、彼が道を得て修煉したことを表しています。彼は牢獄で数年を過ごしました。詩の最初の2行は、彼が大きな困難に直面した後、正法を得て人生を悟ったことを表しています。3行目と4行目は、彼が非常に平穏な境地に達したことを表しています。5行目と6行目は、彼が過去の経験を理解したことを表しています。最後の2行は、真の勇士、心の高い人間がすぐに修得できるということを示しており、これは彼自身の自己評価でもあります。彼はすでに生死の境を超え、名誉と利益の欲望を完全に捨て去ったからです。「生死の境を超えるかのようになった」という彼の言葉について、さらに補足します。
文天祥が獄中で、敵対勢力が彼に書状を書いて投降を求め、そうすれば釈放して、官職に就けると持ちかけました。
しかし、彼は詩を書いて、自らの意思を伝えます。「無書求出獄、有舌到臨刑。宋故忠臣墓--真吾五字銘!(書物なくして出獄を求むべからず、舌有りて刑に及ぶべし。宋の忠臣の墓--これ真我(真実の自分自身のこと)の五字銘!)」
敵対勢力が彼を殺害した後、彼の衣服のポケットから一枚の紙片が見つかり、次のように書かれていました。
「孔曰成仁、孟曰取義:惟其義尽、所以仁至。読聖賢書、所学何事? 而今而後、庶幾無愧」ーー(孔子は仁を成すと言い、孟子は義を取ると言う。ただ、義を尽くすことが仁の至りである。聖賢の書を読み、何を学ぶのか。今後、庶幾無愧(しょきむき。常に、自らの覚悟に愧(は)じないでいることが学ぶこと)」。これは本当に歌われるべきであり、心を打つものです。
文天祥は状元宰相として、国と民のために職務を全うし、道徳は永遠に残りました。そして、彼自身が晩年に道を聞いて法を得て、早くから望んでいた境地に到達したことは、彼の人生を十分に満足させました。この状元宰相が一番憧れたものは何でしょうか? それは修煉です!