【スイス法会】疲労という仮相を突破し、続けて確実に修める
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文/スイスの大法弟子

 【明慧日本2022年11月10日】

 尊敬なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は大法を修煉し始めた頃、よく古い弟子から「修煉を始めたばかりの頃は精進していたが、やがて怠けるようになった」と聞きました。なぜ師父が、私にこれらのことを聞かせるように按排してくださったのか、今はよく理解しています。それは、常に精進するようにと私に注意してくださるのです。しかし、時間が経つにつれ、私は修煉を怠っていることに気づきました。以前は自分に厳しく、自分の執着心を見つけると、真剣に取り組んでいました。しかし、今は「後で修めよう」と思うことがよくあります。

 しばらくの間、私は修煉においてなかなか向上せず、より高い次元へ突破することができなくなりました。私は、自分がどれほど休みを望んでいるかに気づきました。それは修煉を一時的に休みたいという気持ちでした。家族や友人が休暇を楽しんでいるのを見た時や、毎週送ってきた美味しい食べ物やビュッフェの写真を見た時、新しい家を買ったとかを聞いた時には、とても羨ましくなります。私はとっくにこれらのものを放棄し、少しも興味を持っていませんでしたが、なぜ、今はこれほど憧れているのでしょうか?

 睡眠と安逸への執着は私を封じ込め、私を精進させないのです。これは、私がまだ通過していない試練であり、私に修煉中の根本的な問題を示してくれました。

 修煉者は超常的な理で量らなければならない

 修煉する前、私は毎日11時間から12時間も寝ました。横になっても、座ったままでも、家の中でも、電車の中でも、車の中でもよく眠り、いつも疲れが取れない感じでした。私だけでなく、私の家族も皆昼寝の習慣があり、特に満腹になるとすぐに眠くなります。

 修煉を始めてから、睡眠時間を8時間に減らして、今までの習慣を直そうと思いました。無理することもなく、8時間でも十分で、かえって元気になりました。しかし、修煉者に対する基準は次元が上がるにつれて高くなりました。

 私が大法を実証するプロジェクトに参加してから、いきなり時間が足りなくなりました。すべての事柄完成しようとすれば、睡眠時間を削るしかありませんでした。最初は7時間にして、次は6時間、さらに5時間未満になりました。これは私にとって非常に辛い過程でした。幸いにも師の法があって、修煉者の視点からこれらの困難を見ることができました。

 師父は「法を学ぶ時に寝てしまう、本を読む時に寝てしまう、煉功する時も寝てしまう、この最も初期のものも乗り越えることができません。それは意志なのです! ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素も、あなたが人間から離れることを阻んでいるだけでなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れは、それらのものがあなたに苦痛を与えることです。しかし、苦痛に異なる形式があり、眠いのもその一種です」[1]と説かれました。

 眠いという苦痛は、私にとって特に大きく感じていました。横になって少しでも昼寝をすれば、その苦痛はすぐに消えるので、いつも「10分間だけ寝よう」と思ってしまいます。しかし、師父が按排してくださったことを通じて、修煉者はもっと高い次元の理に符合すべきだと分かりました。

 ある夜、私は以外にも眠れなくなりました。「朝早く起きて出勤しなければならない。明日は大変な日になるだろう」。その不安が重圧となり、さらに眠れず、何時間も寝返りを打った後、いっそのこと起き上がって坐禅を組むことにしました。それからやっと眠りにつきました。しかし驚いたことに、3時間しか寝ていないにもかかわらず、翌日の私は元気いっぱいで、落ち着いて難しい仕事もやり遂げ、全く疲れを感じませんでした。

 これとは対照的に、ある朝、発正念の後で学法をしていましたが、つい眠ってしまいました。通常、発正念をした後、より集中して学法できますが、私は自分を制御できないため、一日中眠くて、体がだるいと感じました。修煉者の理と常人の理が逆であると分かりました。

 私は長く寝るたびに、似たような暗い夢を見ます。すると目が覚めて、起きるべきだと分かります。このような経験を経て、私は徐々に考え方を変え、疲れると自然に眠ろうと思わないようにしました。これは私の修煉を妨げる物質であり、私はそれを突破しなければならないことに気づきました。

 時間が経つにつれて、早起きが楽になりました。以前私の目覚まし時計は8分おきに鳴り、1時間続けてやっと起きられました。今は目覚ましが鳴ると、体のだるさに左右されず、すぐに起きることができます。しかし、試練はさらに難しくなりました。

 修煉は人を待たず

 私は同修が経営するメディア会社でフルタイムで働き、ある同修と共同で一つの分野を担当していました。中共ウイルス(コロナ)の後、神韻芸術団が再び欧州で公演することになり、私は心から喜んでいました。神韻を広めるため、私と同僚は交替で応援に行きました。1人が応援に行くと、もう1人の仕事の時間が長くなります。この過程で、神韻は私に大きな力を与えてくれました。いつもパソコンの前で11時間から12時間も仕事に没頭し、週末の休みもなく、睡眠時間が大幅に短縮されましたが、まったく問題はありませんでした。この経験から、すべて可能であることを教えてくれました。

 しかし、私の常人的な観念は結局、問題を引き起こしました。我慢の限界に達したと思うたびに、同修とのトラブルが生じます。すると私は心の中で、自分の仕事について文句を言い始めました。良くない考えは良くない行動につながります。批判される時もトラブルが起きた時も、私はいつも自分が被害者だと思い込んでいます。私にとって、放棄したことも力を尽くしたことも多いので、周りの人は私に寛容でなければならないと思いました。私の不満はチーム内の雰囲気を悪化させました。

 私は、同修が時間を有効的に利用していないと知っていても、口では何も言いませんでしたが、心の中では「私はまだ懸命に働いているのに、あなたはどうして休んでいるのか?」と心のバランスが取れなくなります。心の容量が小さくなり、嫉妬や不公平に扱われたという観念が強くなりました。

 神韻公演のシーズンが終わると、私は「やっと休むことができて、旅行でも行こう! とにかくここを離れることだ」と考えていましたが、思うようにはいきませんでした。会社は根本的な構造再編を行い、私には新しい仕事が任せられました。この移行期は、全員にとって非常に困難なものです。希望していた休みは取れず、週7日勤務も珍しくありませんでした。私の心は折れました。

 私は常人の生活にますます憧れ、しばらく修煉を休みたいという気持ちすらありました。「もっと長く寝たい。もっと快適な生活を送りたい」と思っていました。私はこれらのベールのように私を覆っている常人の考えに溺れ、それと戦う力がありませんでした。数カ月の間、私はこの常人の観念に閉じ込められ、次第に修煉を緩めました。しかし、私は苦境の中で学法と煉功を怠りませんでした。

 厳粛な態度で 大法を実証するプロジェクトに携わる

 ある日、朝寝坊してネットでの集団学法を見逃してしまいました。しかし、私は諦めず、その夜ようやく『轉法輪』の学習ペースに追いつきました。この学法の時、師父が直接、説法してくださっているように感じました。修煉を始めた頃、このような経験がよくありました。

 師父は「昔の人間は徳が多く、もとから心性が高いために、ちょっと苦痛に耐えればすぐ功が伸びたものでした。ところが、現在の人間はそれと違って、ちょっとした苦難に遭うとすぐ修煉をあきらめたくなります。そればかりでなく、悟りがますます悪くなる一方なので、修煉がいっそう難しくなります」[2]と説かれました。

 法を学んでいるうちに、重いものが体から抜けていくのを感じました。数日後に公園で煉功した時も同じような感じがしました。正念がゆっくりと頭の中で形成され、良くない観念を追い払っているのを感じました。自分の不平不満はでたらめなもので、人の思考や感情も良く変り、何物でもないことに気づきました。そんなものをどうして放棄しようとしないのでしょうか? 私はそれらに心身ともに疲れた状態に落とされたのです。このような状態でも修煉を決意することができるかどうか? 「大法弟子」という称号にふさわしいかどうか? これらの問題に直面しなければなりませんでした。

 私はまた、学法と煉功の重要性を認識しました。忙しくなると、学法と煉功が疎かになりがちですが、実は忙しくなればなるほどしっかり行うべきだと思うようになりました。

 ある時、私が時間が足りないと不満を言った時、知人が私に「時間は絞りだすものです」と言いました。他のことでも学法の時間が短縮されると、優先順位を間違っただけではなく、時間を本当に有効的に活用していません。これに対して、すべての説明はくだらない言い訳に過ぎません。

 師父は私たちに「いくら忙しくても法を勉強しなければならなりません」[3] と説かれました。

 私は今まで、これらの困難に耐えてきただけで、苦をもって楽とすることができませんでした。これは私にとって、とても悔しいことです。また私は、大法を実証する仕事に対して、真剣さが欠けていると気づきました。誰もが大法弟子のプロジェクトに参加できるわけではありません。神がすでに按排してくださったのです。参加できること自体が大きな光栄です。私はとても感謝しています。この試練を通じて、私は修煉の道でまた少し前進しました。

 師父、毎回按排してくださり、ありがとうございます!

 同修の皆さん、一緒に開かれた修煉の環境に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『長春輔導員法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 (2022年スイス・ドイツ語法会原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/1/451350.html)
 
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