「修煉は厳粛である問題」についての浅い悟り
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文/中国大陸の大法弟子

 【明慧日本2022年11月23日】私は、この世で法を正す時期に大法の修煉に入り、大法弟子となりました。これは千載一遇のチャンスであり、弟子は何千万年もこのチャンスを待っていたのです。

 私が修煉してから、20年数年が経ちました。ずっと師父に従い、三つのことをしっかりと行ってきました。自分の地域で大法弟子として協調し、いくつかのことを行ってきました。心性も大きく向上し、全体的には精進していると思っています。

 私は73歳です。 70代に入ってから、修煉の厳粛さ、貴重さを良く理解できるようになりました。 延命は修煉のためであり、常人の生活をするためではありません。修煉は油断してはいけません。一つの執着心すら残しても危険です。 なぜなら、すべての人の人心が私たちを妨げているからです。

 今日は、最近どのように主意識を強化し、修煉に対して、どのように厳粛に取り組んでいるかについて、わずかな悟りを書き出しました。不適切なところは、慈悲をもってご指摘ください。

 一、修煉が基準に達するべき

 最近、ある修煉文書を読みました。その中で数え切れないほどの苦難を乗り越え、常に自分の気持ちを修正し続ける修煉者が紹介されていました。 すべての修煉者は、円満になる前に、極めて厳しい「試験」を受けます。少しも要求に満たさないと、円満にならず、三界を超えることができません。法には基準があり、宇宙の法はバランスを取っているので、すべてを制約しています。

 師父は「ですから、法は厳粛であり、大法弟子一人一人は必ず到達すべき各境地の基準に達しなければならず、これは厳粛なことです。修煉の中で取り除くべきものを取り除かなければならず、少しでもいい加減にしてはいけません」とおっしゃいました [1]

 実は自分もよく知っています、修煉が円満になれないことは、自分の修煉に対する反省が必要だけではなく、自分の世界の衆生に対する約束を破り、失望をさせてしまうので、これでは師父の慈悲深い済度に対して申し訳が立ちません。しかも、師父の言われるように、「誓約が実現される中でその結果を引き受けることになります」[2]

 ある同修は「円満に修められないなら、『業を持ちながら、往生する』」と言いました。しかし、皆さんは考えたことがありますか。「業を持ちながら、往生する」にも基準があります。修煉がうまくいっても悪くてもすべて「業を持ちながら、往生する」わけではありません。しかも、そういう人たちは神仏の世界に入ることができないのです。あなたはその資格がないし、きれいに修めていません。神仏の世界を汚す恐れがあるので、あなたに覆いを被ぶせて、神仏の世界のそばで修煉させましょう。話によると、人間界で数日の間に修煉を積んで到達できることは、「業を持ちながら、往生する」にはかなりの時間がかかり、徐々に境地を高め、最後に基準に達して初めて神仏の世界に入ることができるといいます。

 特に、今回の修煉は大法師父が宇宙の法を正し、新しい宇宙に衆生を済度する時期です。この「業を持ちながら、往生する」は旧宇宙で以前からあったことです。

 師は「宇宙で法が正されており、天体が建て直されています。法が正された後の全ては最も素晴らしいので、基準に達していないものは、それより高い基準を持つ次元の中の生命にはなりません。基準に相応するところにいるのです。実は皆さんに教えますが、以前極楽世界ではこのような情況がありましたが、法が正された後になると、何とも言えません」 [3]

 ですから、常人の複雑な環境、迷いの空間の中で、純粋に自分を修め、一歩一歩自分の境地の向上に到達し、誓いを守り、完璧に自分を修めることが必要なのです

 二、法で修煉の指導

 以前は、法の学習は読むだけで、頭ではあまり考えていませんでした。20年以上の修煉を通じて、私は「法輪大法は歴史上のどの修煉とも異なる」ことを心から実感しています。 特に今回は、師父(主仏)がこの世に降りてきて、弟子たちをより高い次元へ導いてくださっています。

 法の中には天機があります。師父は弟子たちに与えられるものはすべて与え、弟子の修煉の向上に役立つものはすべて学法の中で得ることができます。 法を学ぶことは、謎を解き、執着を取り除き、悟りを深め、身体を清めるだけでなく、知恵、定力、正念、目標を与えてくれます。今まで歩んできて、修煉の指針となるのが「法」であり、私たちの根本的な執着や人の心、物事の観念を見つけるのを助けています。修煉者は、法をよく学び、理解し、同化することこそ、目標に向かって時間とエネルギーのすべてを大法修煉に捧げる意欲を持つことができます。内に向かって探し、修煉し、三つのことをしっかりと行うる中で自分を円満までに修煉します。

 私はよく自分に言い聞かせます。もし今回の師尊が直接私たちを済度する機縁をつかむことができなければ、永遠にこの世の中で、生、老、病、死、そして、六道輪廻の中で循環します。修煉の機会を再び得ることができなくなります。これはとても厳粛なことなのです。

 いつも、どんなに忙しくても、法の勉強をおろそかにしてはいけないと自分に言い聞かせています。 法には、師から与えられたすべての能力があり、それは私たちの修煉中のすべての問題を解決することができます。常に法をよく学び、法の指導に従って修煉することのみ、異なる次元の仏道神になることができます。ですから、法をしっかり学ぶことが肝心なのです。

 三、絶えず精進しなければならない

 修煉するには、まず師父と大法を信じ、確固たる信念を持ち、しっかりと修煉しようとする気持ちが必要です。この前提があってこそ、初志貫徹し、不屈の精神で頑張ることができるのです。

 最近、ある同修は「煉功したくない、煉功するのが怖い、疲れる、特に法輪を抱えるのが大変だ」と言っています。この同修は煉功は難しいことだと思っています。朝はいつも眠くて、時間を逃してしまい、仕方なくの煉功は功法を少なくするか、第二功法を30分するしかありません。ある老人同修は足が痛くて、法輪樁法を煉るとき立っていられないので、座って法輪を抱えています。

 実際、このようなトラブルに遭遇したとき、肉体的に耐えていることは、業の消去と転化、身体の浄化と借りの返済、昇華して、高めるための良い機会だと前向きに(正念を持つ)考えてはどうでしょうか。修煉は粘り強く頑張り抜く必要があります。意志の力を修め、最初に法を得たときと同じように終始一貫して精進し続けます。師を敬い、大法を信じる心を持ち続けます。そうすれば、あなたは自分を厳しく律することができ、自分自身を要求することができます。

 眠くて12時の正念を発することができなかったこともありました。自分が師父に申し訳ない、師父から言われた三つのことを妥協してしまったと自分を責めていました。 二度とこのようなことがあってはならないと自分に警鐘を鳴らし、毎晩寝る前に「目覚めることを忘れてはならない」と念を押しました。 その結果、時間が来れば自然と立ち上がることができました。

 なぜなら、今回は修煉を円満までやり遂げ 師父に従って家に帰り、悔いのないようにするという決心した目標があります。残されたわずかな正法修煉の時間の中で、私は全部の精神を修煉に注ぎ、三つのことをしっかり行い、常に精進しなければなりません。

 四、修煉には小事なし

 師は「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[4]と説かれています。

 修煉は厳粛であるため遭遇したことは、小さいな難儀または小さな問題も、注意しないと、積み重なれば大きな問題になりますので注意しないといけません。 旧勢力は大法弟子の積み重ねた小さな問題を強めていき、徐々にハードルが高くなり大きな難儀を形成させます。ある人は健康問題があり、ある人は家庭内のトラブルが絶えないなど、あらゆる圧力がかかり乗り越えられるなくなります。

 なぜそうなのでしょうか。 私たちの修煉環境は、私たちの修煉の場所です。 常人の心があるからこそ、その心に相応する魔難が現れます。 あなたの修煉に漏れがなければ、旧勢力はあなたを迫害することができません。 修煉者は、法の基準に自分を要求しなければなりません。そうでなければ、常人であり、修煉者ではありません。

 五、あげられている修煉の縁を大切に

 私はすでに大法の中で26年も修煉してきましたが、修煉は厳粛であり、修煉の道を正しく歩まなければならないことを深く理解しています。世間の全ての金銭と地位、全ての物質的な富は、実質的な利益をもたらすことができず、人の悩みと苦痛を根本的に解消することもできず、億万長者でさえ、生、老、病、死からは逃れられませんし、世間の富はあっという間に消えてしまうことがあると痛感しました。一方、大法修煉によって、苦しみから完全に解放され、三界を離脱し、輪廻転生から解放されることができます。これほど大きなことに、修煉者として厳粛に対処しなくていいのでしょうか? これらはなかなか手に入らないからこそ、大切にしなければなりません。

 師父は慈悲で、私たちの向上を辛抱強く待っていますが、旧勢力は虎視眈々と一人一人の大法弟子を見つめています。ですから、私たちは自分の一つの考え、一つの念を修煉することに気を配り、師父が言っている「最後になればなるほど、精進すべき」と言う通りにして、法をよく学び、大法修煉の過程において自らを浄め、師父と一緒に自分の本当の家に帰らなければなりません。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国中部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
 [3] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/4/450202.html)
 
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