大法の光に包まれて、堂々と正しく良い人を目指す
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文/中国の大法弟子が口述 同修が整理

 【明慧日本2024年12月20日】 

 苦難の中の人生

 私は生後8カ月の時に皮膚病を患い、頭全体に腫れ物ができ、ひどいかゆみに悩まされました。自分でしょっちゅうかきむしり、かくと血が出て膿が流れ、黄色い液体が垂れて、そこにまた腫れ物ができました。たとえ膿が止まりかさぶたができても、かゆみは消えませんでした。このしつこい皮膚病に対して、私は30年間も治療を続けましたが、一日たりとも良くなった日はありませんでした。

 3歳になるまで歩けず、やっと歩けるようになった頃でも、頭はつるつるのままでした。学校に通うようになると、頭が働かず、まるで鉢をかぶせられたように何も覚えられず、学問と無縁の状態でした。周りの子が書いた正しい答えを写すことさえできず、同級生からも嫌われ、先生にも疎まれました。

 11歳の時、今度は髄膜炎にかかり、意識不明の状態になりました。母は数日数夜も私に付き添ってくれ、ようやく命を取り留めましたが、それ以降、勉強はさらに身につかなくなりました。

 12、3歳になる頃、頭のただれた傷から膿が出る症状はようやく治まりましたが、この恐ろしい皮膚病は今度は手に移り、ひどいときには日常生活がままならず、誰かに世話をしてもらう必要がありました。家族は名医を求めて山を越え谷を越え、さまざまな民間療法や奇妙な治療法を試したり、あらゆる手を尽くしましたが、効果はありませんでした。

 不運は重なるもので、目は風に当たると涙が出て、さらに黄疸肝炎やリウマチ、重度の貧血なども患いました。そのために自信が持てず、怯えながら生きていくしかありませんでした。大人の女性になると、他の娘たちが美しい手をしているのを見るたびに、私は自分のひび割れた手が恥ずかしく、誰にも見せないよう隠していました。薬を塗るのも人目を避けて行い、嫌われるのが怖くてたまりませんでした。

 結婚後も、毎日夫に隠れて薬を塗り、薬を服用していました。夫は時々その薬のにおいに気づくこともありましたが、黙って何も言いませんでした。長年の病苦により、私は自信を失い内向的で、人と距離を置く性格になってしまいました。

 夫は田舎から出て勉強した人で、文才があり仕事の能力も高く、普段から時折誰かが彼に贈り物を持ってきていました。私は頼れる相手を見つけたと思っていました。しかし、突然の悲劇が襲いました。29歳の夫が交通事故で亡くなり、私は3歳半の息子を抱えて取り残されました。

 当時、夫の職場の上司が懸命に加害者側と交渉してくれ、相手はすべての医療費と葬儀費用を負担しました。その後、夫の職場に配慮してもらおうと、私は職場の上司に社宅への入居をお願いしましたが、空き部屋があったにもかかわらず、入居を許可してもらえませんでした。

 そこで、私は一人で夫の職場に押しかけ、空き部屋の鍵をこじ開けて、子どもと田舎から来た義母を連れて強引に引っ越しました。この行動が原因で、夫の職場の人々は私に対して強い不満を抱くようになり、以後、私に一切の助けもなく、手を差し伸べてくれなくなりました。残ったのは自分の悲しみと怒りだけでした。その頃、私は夜になると一人で胸を叩きながら大声で泣くことがよくありました。

 私の世界は真っ暗でした。生きる希望も見出せず、どう生きていけばいいかも分からず、ただ怒りと恨みでいっぱいでした。「私はこんなに真面目なのに、しかも病気が多く、息子はまだ幼い、夫が突然いなくなってしまった。これからどうやって生きていけばいいのだろう! この孤児と寡婦の私たちが、人に侮られてはならない。息子には自分で自分を守れるようにしなければならない」と考えました。そこで私は息子の爪を長く伸ばさせ、「相手に勝てないときは、引っかいてでも勝ちなさい」と教えました。あるとき、私は義母と口論になり、その怒りのまま義弟の職場にまで押しかけ、彼を追いかけて罵りました。

 これが修煉を始める前の私でした。もし後に法を得ることがなかったなら、このまま進んでいけば、私は精神病にかかっていたか、少なくとも深刻な神経質な人間になっていたでしょう。

 そして息子も私のせいで台無しにしていたに違いありません。法輪大法を修めることがなかったら、実家や義理の家族とも二度と関わらなかったでしょう。当時の私は常に自分がどれだけ不幸かということばかりを考え、家族の全員が私に配慮すべきだと思っていました。今振り返ると本当に恐ろしくなります。あのような人生観で生きていたら、どれほど悲惨で恐ろしい人生になっていたか、想像するだけでぞっとします。

 法の光の中で 堂々と正しい人として生きる

 1996年初め、いとこが私の耳元でいつも「法輪功がどれだけ素晴らしいか」を話し、さらに『法輪功』という本を渡してくれました。

 私は毎晩ベッドに座ってその本を読み始め、読めば読むほど理解が深まり、心が晴れ渡っていきました。人生で理解できなかった問題や、自分の病や苦難がすべて自分の業力によって引き起こされたものだとわかりました。「なんて素晴らしい法輪大法でしょう。学歴や身分に関係なく、誰でも修煉ができて、真に修煉すれば師父が見守ってくださる、なんて素晴らしい功法でしょう! どうしても私は修煉しなければならない!」と思いました。

 修煉を始めてからは、春の風に包まれるような心地で「真・善・忍」を実践する中で、すべての病がいつの間にか治り、30年間苦しめられてきた皮膚病まで治り、皮膚が滑らかで細やかになりました。それ以来、私は生まれ変わり、真・善・忍を心に抱きながら、新たな人生を歩むようになりました。毎日が朗らかで楽観的で、生まれて初めて心の底から自然に歌が湧き上がってくるようになりました。

 あるとき、義母が私に難癖をつけ、私が靴を捨てたと言い張りました。私は言い争わず、新しい靴を買って義母に贈りました。後で義妹から「靴はソファの下から見つかった」と聞きました。そのとき私は、「もし私が真・善・忍を修めていなかったら、こんな対応はできなかった」と思いました。

 しばらくして、夫の職場の家族用の部屋に強引に入居したことは間違いだと感じ、実家に戻ることにしました。

 夫が亡くなった際、職場が義母と祖母の名義で2人分の遺族手当を申請してくれました。義母が亡くなった後、私は利益に執着しないことを心に決めました。上司に会いに行って、手当を打ち切るようお願いしました。「義母も祖母も亡くなりましたので、この2人分の手当は受け取るべきではありません。どうか抹消してください」と伝えました。職場の方は年末まで受け取るよう勧めてくれましたが、私は即時停止を強く求めました。この知らせが職場中に広まり、「法輪功を修めている者は、受け取るべきでないお金を受け取らないのだ!」と噂になりました。

 私の両親は3人の息子を育て、彼らはお金も権力も持っている一方で、私だけが娘として家が没落して、頼るものもなく困窮していました。実家に1年間住んだ後、父は私の運が悪いと感じ、再婚を強要しましたが、私は拒否しました。実家に2年住んだ後、父は私たちに「出て行け」と言いました。しかし、実家には2カ所の中庭と多くの家屋があったので、私は実家の家を借りて住む提案をしましたが、父は許してくれませんでした。その時、私はとても悲しくなり、仕方なく工場で住む場所を探しました。しかし、工場には部屋を提供してもらえず、子どもを連れて集団宿舎に住むことはできても、家具は一切持ち込んではいけないと言われました。私は修煉者としての基準で自分を律し、父とは争わず、すべてには因果があることを受け入れるしかありませんでした。

 修煉後、何度も中共からの迫害を受け、仕事を失った私は、家政婦、介護職、料理人などの仕事をして生計を立てました。師父の慈悲深いご加護の下、日々苦しいものでしたが、心はとても充実していました。

 どこへ行って働くときでも、私はいつも自分が修煉者であることを意識し、「真・善・忍」を基準に自分を厳しく律し、損を恐れませんでした。

 どこに行っても、仕事を辞める直前になると、私はますます完璧に仕事を仕上げようと努力しました。部屋の隅々まできれいに掃除し、隠れた場所にゴミが残らないようにしました。私の行動で「法輪大法は素晴らしい」と証明し、どこに行っても仕事を終えるときには、雇い主が名残惜しそうに私を送り出してくれました。商家で料理をしているときも、働き手が残した食べ物を無駄にして捨てるのを見て、私はいつもそれをやめるように話し、物を大切にし、福を惜しみ、物を無駄にしないようにと人としての道理を伝えました。しばらくすると、彼らは皆、正しい考えに変わり、心から感謝してこう言いました。「おばさん、どうしてそんなに良い人なんですか?」

 あるとき、夫の元職場の同僚の家で、介護職の仕事を引き受け、半身不随の妻の世話をすることになりました。これで、私は以前住んでいた夫の職場の家族用住宅に戻ることになりました。私は修煉者としての基準で自分を律し、雇い主の家に対して心を込めて働き、空いている時間には雇い主が住んでいる建物の階段や、家族用住宅内の地面をきれいに掃除しました。夫の同僚が「みんながあなたのことをどうこう言っているけれど、実際にはあなたはとても良い人だね!」と私に言いました。しばらく介護職を続けた後、夫の元職場の同僚たちの私に対する印象は完全に変わり、私が法輪大法を修めてから変わったことを理解してくれるようになりました。

 私は実際の行動で「法輪大法は素晴らしい」と証明し、以前の不合理な行動によって生じた影響を取り戻しました。1人の雇い主は、私が辞めてから6年後、どうにかして人を通じて私にメッセージを送り、再び私を家に呼んで介護の仕事をしてほしいと言いました。

 1人で子供を育てることは本当に大変なことでした。社会が腐敗し、人々の心が悪化する中で、私のような孤児寡母を欺くこともありました。

 しかし、私の心の中には法輪大法があり、もう孤独ではなく、恐れることもありませんでした。修煉者としての自覚を胸に持ち、誠実に人々に接し、物事を処理しました。嫉妬せず、報復せず、恨んだり憎んだりもしませんでした。

 その後、紹介を受けて、私は古い平屋を買いました。近所には教師が住んでいて、私が独り身で人付き合いが良く、親切であることを知って、何度も夜に私の家に来て、品のない言葉で私を誘惑し、一緒に夜に外出しようと誘いました。私は穏やかに彼に人としての道理を話しました。彼は私の人間性を理解し、邪念を捨てました。

 またある時、彼は根も葉もないことを言い、再び私の家に来て、下品な言葉で私を侮辱しました。私は言い返すことなく、その後、彼の妻に尋ねました。「どうしてあなたの夫が私の家に来て、大声で私を罵り、侮辱したのか分からないのですが?」と言うと、彼女は驚いた表情で、何度も否定し、「そんなことはないでしょう?! 彼はいつも家であなたのことを素晴らしい人だ、品があると言っているんですよ!」と言いました。私は知っていました。法の基準に従って正しく行動していれば、たとえ悪事を働く人々であっても、心の底から敬服せざるを得ないのです。大法弟子の言動は世の人々をも感化していきます。師父は、「世の墜落を窒ぎ截る」(『洪吟二』「普く照らす」)と説いておられます。

 夫の妹は義理の家族が多く、その家族から圧迫されていたため、特に義母に対して強い恨みを抱いていました。私は普段から彼女に、人としての道理や業力の報いについて話していました。彼女は義母に対する態度を変えました。ある日、彼女は突然「お姉さん、あなたが私を救ってくれたんですね!」と私に言いました。私は「あなたを救ったのは、大法の師父です!」と答えました。

 夫の弟も、「1人で子供を育てているのに、僕と妻の2人よりもずっと生活が良いじゃないか」と私を褒めて言いました。私は「それは法輪大法を修めているからで、師父が私に福を授けてくださったからです!」と彼に答えました。普段から私はできる限り彼らの家を助けていました。彼と妻は外で働きに出て、子供は私が1年以上面倒を見ました。食事や住まいなど、すべて私が面倒を見ていましたが、彼らが金をくれても私は受け取りませんでした。彼らは貯金通帳を私に渡し、必要な時に自由に使っていいと言いましたが、私は一度も使いませんでした。彼らが帰宅した時、通帳をそのまま返しました。自分の経済が回るようになり、他の人を助けることができるようになったことに、私はとても満足しています。

 両親が80歳を過ぎてから相次いで寝たきりになりました。兄弟たちはすでにそれぞれ家を建てて独立して生活しており、条件も良かったのですが、誰も両親の面倒を見ていませんでした。

 私がちょうど定年退職して家にいる時、私は自ら進んで実家に住み、両親の介護を引き受けました。1年以上にわたり、2人のために食事を作り、水を飲ませ、排泄物を片付け、便通が悪いときはあらゆる方法を尽くして助けました。両親がベッドで排泄すると、私は手が汚れても、疲れも厭わず、心を込めて世話をしました。母が重病で入院し、医者は「あと2、3カ月しか持たない」と言いました。しかし、大法のご加護と私の精一杯の看護のおかげで、母は1年以上生きました。親戚たちも大法の素晴らしさを目の当たりにし、私が内外で両親の世話をし、家の中がきちんと整っているのを見て、心から「法輪大法は素晴らしい」と認め、感心しました。

 母が亡くなった後、父の葬儀の席で、従兄が直接私に大兄弟(父)から酒を注いでもらうように言い、私が両親に対して心を込めて世話をしていたことを褒めてくれました。大兄弟が酒を注いでくれる際、心から「信仰を持つあなたはすばらしいです」と称賛してくれました。

 もし大法を修めていなければ、私は両親の世話をそのようにすることはなかったでしょう。父は長男を重んじ、私に対してとても厳しかったのです。兄たちは皆、家計が豊かでしたが、父は「孫が大学に入学したら、学費は全部出す」と言い、2人の孫と1人の孫娘の大学学費は父が全額支払いました。私の息子が大学に入学したとき、父はほんの少しのプレゼントをくれただけで、兄嫁さえも「孫の勉強にお金を出すのは誰でもできること、父親があなたの息子の面倒を見るべきだ」と言いましたが、父は無視しました。私は心を落ち着け、恨まず、怒らず、ただ孝行を尽くしました。私を知っている人は誰でも、大法を修めてからの私の行いを知っています。特に夫の家では、数十里の範囲で私の評判はとても良く、世間の人々は私を簡単ではないと褒めてくれます。「夫は29歳で亡くなったのに、こんなに若いのに、一人で子供を育て、立派に育て上げ、新しい家も建てた、ほんとうに大変だったね!」と。みんな、それが師父が私という弟子に与えてくださった証だと知っています。

 1999年7月、江沢民邪悪集団が法輪功に対する迫害を始めた最初の数年間は、私が最も迫害を受けた時期でもありました。悪人や警察が時々家に押し入っては、私に対して脅迫や威嚇を行いましたが、私は三つのことを決して怠りませんでした。真相資料の配布、真相の横断幕の掲示、真相のステッカーの貼り付けなど、大法による済度活動であれば、私ができることは全て努力して行いました。

 2001年、私は同修たちと一緒に真相を伝えて衆生を救おうと約束し、ある同修が私の家に来た際、職場の書記に尾行され、派出所に通報されました。警察が私を家から引きずり出し、真相資料と横断幕が入った袋を二つ押収しました。派出所では、「610」弁公室の職員たちが交代で私を尋問し、5日5夜眠らせず、私が目を閉じるたびに、警察は棒で私を殴り、大声で罵倒して脅迫しました。

 不法に拘禁されている間、私は同室の囚人たちに『洪吟』や『大法は堅固にして破壊不可能である』などの経文を教えました。私は部屋の中で修煉を続け、警察が石を投げて私を攻撃してきましたが、私は全く動じませんでした。ある時、私は刑務所の警察に善意を伝える手紙を渡した後、断食して迫害に抗議しました。5日5夜、私は食べず、飲まず、7、8人が私に無理やり食事を与えました。手を押さえ、足を踏みつけ、頭を押さえ、腹を踏み、歯をこじ開けるなどの暴力行為をしました。同室の囚人たちは私を助け、刑務所に私を家に帰すよう要求しました。最終的に、私は命が危ないと見なされ、ようやく家に帰れました。

 2003年の正月15日、私は同修たちと一緒に自転車で鉄道の生活区に真相資料を配布しに行きましたが、私1人だけ捕まりました。鉄道の職員は20人近くで私に不法に尋問を行い、写真を撮りました。私は協力を拒否し、彼らは私の髪の毛を引っ張って写真を撮ろうとしました。私は「撮ってください。これがあなたたちの罪証です!」と言いました。それを聞いた彼らは恐れて、撮影をやめました。

 師父が私に智慧を開いてくださいました。師父の加持のもとで、私は彼らに真相を何度も説明しました。なんと、20人近い彼らは、私1人の女性に言い負かされてしまいました。その後、彼らは私に「どこで教えていたのですか?」と尋ねました。私はその後、鉄道の派出所に連れて行かれました。同じ監房に入っていた切符の売人が、私が法輪功の修煉者であることを聞き、共産党の嘘を信じて、私が彼女を殺すかもしれないと恐れました。「法輪功を修煉する人は自殺したり、人を殺したりするんだ!」と話しました。深夜に新たに入ってきた切符の売人たちに、私は自分が温かくしていた布団を譲り、冷たい場所に座って、時間があるときに彼女たちに真相を伝えました。また、警察にも真相を伝える機会を見つけました。その後、私は市の留置場に移送され、再び迫害に反対するために断食し、正念を持って脱出しました。

 ある時、私は小学生の息子を連れて真相の貼り紙をしに行ったところ、隠れていた警察に見つかりました。息子は私の足を抱えて「ママを捕まえないで!」と叫びました。しかし、警察は私を捕まえました。息子は1人で家に帰りました。私は再び前回と同じ監房に入れられました。犯人たちは私に「前回は断食して出てきたけど、今回は無理だろう」と言いました。私は心の中で「あなたたちが決めることではない」と思っていました。私はやはり生死を放下し、断食して迫害に反対しました。13日後に家に帰りました。何度も不当に拘束されましたが、大法への確固たる信念を持ち、生死を放下して正念で困難を乗り越えました。この機会を借りて、師父が弟子のために耐えてくださったことに感謝し、また同修たちの正念の支援にも感謝します。

 慈悲深い師父に感謝いたします。10年以上、師父のご加護の下で順調に歩んできました。手に入れた大量の紙幣は、私はいつも真剣に選び、洗い、平らにし、破損している部分を修復してきました。すべての真相のお金が法輪大法の真実を伝え、すべての衆生が「法輪大法は素晴らしい」と知ることができるようにしています。

 28年の修煉の道のりで、師父は弟子にあまりにも多くの恩恵を授けてくださいました。言葉では表現しきれませんが、心の中で師父に申し上げます。「師父、安心してください。私は必ず師父に従い、修煉を最後まで続けます!」

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/12/481499.html
 
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