修煉者の心の奥にある執着
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文/スウェーデンの大法弟子

 【明慧日本2024年3月14日】清代乾隆年間の学者・紀暁嵐が晩年に書いた『 閲微草堂筆記 』(えつびそうどうひっき)の中で、修煉者に関する次の物語が記録されています。

 清代のある学者が嵩山を旅行していると、川辺で水を汲んでいる女性を見かけました。彼は喉が渇いたので、水をもらおうと聞いてみると、女性は喜んで瓢箪を差し出してくれました。次に道を尋ねると、女性はまた快く案内してくれました。そこで彼は女性と木の下に座って会話をしました。女性はいくつかの本を読んだことがあるようで、農村の女性ではない感じがしました。学者は女性が妖狐ではないかと疑いましたが、彼女の美しさと風雅さに惹かれ、彼女との会話を楽しんでいました。

 突然、女性は衣を振り払い立ち上がって、「危ない! 今までの修煉が台無しになるところだった」と言いました。学者は不思議に思い、何が起こったのか尋ねると、女性は顔を赤らめて、「私は師父のもとで100年以上道を学んで、自分の心は静かだと思っていました。しかし、師父は『あなたは邪念を起こさないようにしているが、邪念はまだ心の中にある。ただ、自分の望むものが見えないだけで、心は乱れていない。欲しいものが見えると、心も乱れる。まるで広大な砂漠に一粒の草の種が残っていて、雨が降ると芽を出すようなものだ。あなたの魔障は近づいている。明日テストをすれば、自分でわかるだろう』とおっしゃった。今日、あなたに出会ったことで、質問と回答の間で私は未練が残ると気付きました。心も微妙に揺れています。もう少ししたら、自制できなくなるかもしれません。本当に危険でした。危うく台無しにするところでした!」と言って、木の上に飛び上がって、あっという間に鳥のように遠くへ飛んで行きました。

 この物語を読んで、私は修煉は本当に容易ではないと感じました。この女性は100年以上修煉してきたのですが、わずかな会話の中で台無しになるところでした。おそらく彼女は他の面でうまく修煉していたかもしれませんが、一つの欠点があっても危ないのです。彼女の師父も彼女の欠点を見抜いていても、取り除く手助けをすることはできませんでした。ただ、苦難が訪れる前に警告し、彼女を守りました。幸い、この警告は効いて、彼女は間に合って自制し、逃げ出しました。しかし、これは単なる一時的なものであり、執着は取り除かれていません。彼女が今後もこの試練を乗り越えられるかどうかはわかりません。

 自分の修煉を振り返ってみると、私は非常に幸運だと感じます。大法弟子である私たちは、小道修煉のような試練と苦痛を経験する必要がなく、執着にいちいち苛まれる必要もありません。法を読み、暗記する過程で、今まで執着していた多くのものが無意識のうちに消去されます。私は、法を読む時、よくある一節が私の執着の根源を突いたように、瞬時にその執着の核心が分かり、師父が私を新たな段階に引き上げてくださったと感じます。

 もちろん、困難や試練もあります。それは、真剣に法を学び、問題が起きたら内に向けて探していけば、これらの試練を乗り越えることができ、台無しになることはありません。しかし、法を長期間真剣に学ばなければ、内に向けて探さないで実践しない限り、試練が訪れたら、本当に乗り越えにくくなります。

 同時に、この物語は私に警鐘を鳴らしています。もしかしたら、自分はましだと感じていて、深層の執着がまだ露出していない可能性があります。油断すると不必要な損失を招く可能性があります。修煉が終わっていない限り、自分の要求を緩めたり、基準を下げたりすることはできません。師父が言われた三つのことを最後までしっかりと実行していくことで、初めて円満成就になって師父と一緒に戻ることができます。

 以上、私の浅い理解ですが、もし法に符合しない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/11/474082.html)
 
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