【明慧日本2023年1月20日】(前文につづく)
(五)拘禁・熬鷹され、「転向」を強いられる
2005年の末、法輪功学習者(以下、学習者)に対する更なる迫害が始まりました。
2003年の異動で、司法部長は呉愛英になっていました。呉は山東省に赴任した当時、呉官正に追随して学習者を気を狂うほど迫害したため、司法部長に選抜されました。着任した呉愛英は、全国の刑務所にいる学習者に「転向」を要求しました。
2005年の10月中旬ごろ、司法部の甘粛省司法局、610弁公室の関係者は、陝西省西安市の大学関係者を手配し、蘭州刑務所で学習者に演説し、「転向」するように洗脳しました。
それから蘭州刑務所は「法輪功に反対する教育課(以下、教育課)」を設立し、各監区もサブリーダーをはじめ、警官2人、囚人4人で構成される「転向促進チーム」を作りました。学習者らは先に「小屋」に拘禁され、そこで洗脳を受けました。私のいる2監区はわりあいと遅い方です。
蘭州刑務所の所長・楊万成、副所長、教育課の課長などは2監区に行き、プレッシャーをかけました。それで監区の区長・王○忠は私と1時間談話しましたが、私を転向させられませんでした。
2005年11月8日から12月7日まで、私は1カ月ほど小屋に閉じ込められました。小屋は広さ6〜7平方メートル、小さい窓があります。私は毎日昼間に座って、夜に大きさ1.5m×2mのコンクリートのベッドに寝ていました。ベッドの下には暖房がありますが、暖房が提供されない時は2枚の綿入れの上着を着てもとても寒かったです。私は2人体制の囚人に監視され、毎日、饅頭(まんとう)1つしか提供されませんでした。
1カ月後、私は別の暗い小屋に移送されました。2人体制の4人の囚人に監視され、私を洗脳し、転向させようとしました。当時、私の身体はとても衰弱しており、熬鷹(疲弊した鷹)睡眠剥奪という拷問を受け、プラスチックの小さい腰掛けに座らせられて9日間睡眠を禁じられました。それで気を失ってから、私はプラスチックの椅子の背もたれに寄りかかって4時間ちょっと寝ることが許されました。その後、また3日間寝かせてくれませんでした。その時の私は自分の限界がどこまでか、この拷問がいつまで終わるかを知らず、1分、1秒がとても長く感じ、1日が1年のように長くてつらかったのです。
刑務所のテレビでは毎日17〜18時間をかけて、中国共産党のでっち上げである「天安門焼身自殺」、「傅怡彬の殺人事件」などを放送し、学習者を洗脳していました。また、法輪功を誹謗中傷する本も数冊ありました。
拷問のイメージ写真:小さい腰掛けに座らせ、睡眠禁止 |
その時の私はむしろ、目が見えず耳も聞こえない方がマシなほど辛かったです。
教育課の警官・路は蘭州大学卒業で弁才に自信があるようで、私との対話を求めました。午後、私を教育課に連れてきて、私を転向させようとしました。さらに、私を説得できないと、この無徳の仕事をやめると言いふらしました。
このように、私と路は毎回数時間、10回以上議論しました。たまに気持ちが激しくなる時、机を叩き、他の警官まで様子を見に来ました。路の全ての罠は、私に見抜かれました。最後に路は「国は今法輪功を取り締まっており、もう学べないのだ」と言って、助け船を出して議論を終わらせました。
(六)母は私と会えず、無念にも他界
2007年1月4日、私は5年ぶりに家族と連絡が取れました。私が入所した当時、自宅の電話番号がちょうど変わったため、連絡が途切れました。しかし、警官が急に家族との通話時間を手配したことにすこし嫌な予感がありました。
私と妹は少し話してから、受話器は母の耳に当てられました。母の重い呼吸の音が聞こえ、「お母さん」と何回か呼びましたが、何も返事がなく、とても落ち込みました。
あとで家族から聞いた話では、母は新年に帰省した子供たちを見て、私と元妻だけがいないことで悲しくなり、脳出血が再発して重体に陥り、病院に搬送されたそうです。家族は八方手を尽くして私と連絡し、通話の当日の夜、母は永眠しました。
当時の私は何も知らず、十数日後にまた母に電話をかけました。その時、初めて葬式も終わったと聞きました。私は気持ちを落ち着かせ、白い布を探して腰につけて、喪に服すことにしました。
養育の恩は天よりも大きいものです。もし、私が母のそばにいれば、母は亡くならずに済んだのです。これは私にとって永遠に残る遺憾です。
(七)小屋で凍え、飲食制限・睡眠禁止された
その年の8月、9月、私は暗い小屋から解放され、元の中隊に戻りました。2009年新年、「放風」(囚人を屋外に一定時間出して散歩させたり便所へ行かせたりする)のチャンスがあり、私は日差しのある場所に座りました。しかし、中隊長の盧は私に外に行かせず、戻らせようとしました。盧と他の警官1人は私を小屋に連れて行き、何も手続きのないまま、私を数カ月拘禁しました。手続きは後から補ったそうです。旧正月に近づき、小屋は拘禁人数を無しにするということで、私は監区に戻りました。
その時の「小屋」での経験は今まで一番辛かったです。きっかけはある囚人でした。その囚人はコネがあるので、昼間は牢屋で寝ていたので刑務所長が怒りました。所長の命令で「小屋」は昼夜問わずにドア全開、暖房停止、荷物手配停止などの罰を与えられました。しかもその時の蘭州の夜は、マイナス10度でした。
私は中に拘禁されてから、当直の所長の命令でドアを閉めました。夜に暖房と荷物がないと聞いた私は担当の副課長と話しましたが、年末年始の休暇が終わったら上司に相談してみると言われました。
3日後、あの副課長は小屋に来て、1人ずつに薄い軍用布団を配りました。しかし、布団はコンクリートのベッドに敷かれ、上に何もないのです。このような環境で半月我慢しました。
2010年8月30日、蘭州刑務所は私に第二弾の「転向」を始めました。あとで聞いた話では、甘粛省司法庁労働改造局のある副局長が蘭州に視察に来た時、「教育課」と警官などを集め「孫兆海の刑期はあと11年ある。そのまま放っておいてはだめだ」と私を迫害の目標にしたそうです。
迫害の手段は飲食制限でした。つまり、1日にまんとう2つ、野菜なし、睡眠禁止などです。2カ月ほど続けました。蘭州の夜はとても寒く、私はひもじいままで睡眠も禁じられました。どうしても我慢できない時、たまに数分から20分ほど仮眠できました。
夜が一番辛いです。身体が震えるほど冷えています。ある日の夜、私がうとうとした時、私を監視する囚人2人を見ました。1人は同じくうとうとし、もう1人は元気がなかったのです。私は自分を責めました。もし私が転向に応じたら、彼らは苦しむことがないだろう。それでも、私の師父と大法に対する強い信念は動じません。このような複雑な心境になりました。あとで自分の考えを振り返ったとき、やはり意志と正念の強さが足りない、情に動じられたことがわかりました。その時の私は他の囚人が苦しまないよう、すでに完成した転向内容を写し、形で協力しました。
2011年6月20日、甘粛省司法庁610弁公室の関係者は刑務所の「転向者」2人を検査することにしました。刑務所の法輪功迫害の担当、「教育課」の責任者らは一緒に私の態度を確かめました。彼らは私に法輪功と師父を罵るように誘導しましたが、私は強く抵抗し、従いませんでした。
刑務所所長は私と接したことがあり、私に強いても効かないことがわかっています。このようにいわゆる検査は終わりました。私を監視した刑事犯は自ら異動を求め、他の監区に送られました。私のいる中隊の囚人2人が私を監視することになりました。
2012年の年明け、私は3回目の強制「転向」に抵抗する準備をしました。「法輪大法を修煉する声明」を書き、5月20日に1式2部の「厳正声明」を書いて監区の新しい指導員・苗に提出しました。
本当は私を担当する指導員・王に出すつもりでしたが、彼は数日前に他の部署に異動していました。
5月22日、一中隊の囚人数人は中隊長にリードされ、ダブルベッド2つ、シングルベッド1つを運んできて、元の5人部屋は7人部屋になりました。暗い小屋には2段ベッド3つ、もう1つのシングルベッドは私用です。私は午前、午後それぞれ2時間ずつ洗脳をうけ、監視カメラの前の椅子に座らせられています。囚人の1人は法輪功を批判する本を開き、私の向かいに座っています。他の人はベッドか、椅子に座っています。彼らは法輪功を誹謗中傷する本を読まず、監視カメラにそれと見せかけるだけでした。それ以外の時間は、私はわりと自由でした。
あとで囚人から聞いた話では、新任の「教育課」の課長は会議を開き、彼らに私に何もしなくてよい、私が安全であればいいと言ったそうです。今回の囚人らもほとんど私と知り合いで、それからの日々はそれほど辛くはありませんでした。
2014年6月、私のいる中隊は2監区から1監区に併合されました。蘭州刑務所も昼間、囚人を留守にさせないことになり、私を生産ラインの部屋に居させ、以前と同じように「洗脳」を見せかけていました。その後、生産の作業場で座るだけで、見せかけをする必要もなかったのです。
(続く)