中共による薬物迫害と人体実験、今なお続いている(一)
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——善良な人が毒殺され、精神病院に収監される時代は直ちに終わらせるべき

 【明慧日本2023年3月6日】(中国=明慧記者)中国共産党(以下、中共)が法輪功学習者(以下、学習者)を薬物や人体実験で迫害し、心神喪失や身体障害、死亡をもたらした衝撃的な残酷な事件が広範囲かつ長期にわたって行われているが、一般人にはまだ広く知られていない。

 一、凶悪な薬物迫害 人間性を喪失する人体実験

 明慧ネットの不完全な統計によると、2021年12月27日まで、中国29の省、市、自治区の少なくとも865人の「転向」を拒否した学習者が精神病院で迫害を受けたことがある。また、多くの刑務所、労働教養所、留置場は、「転向」を拒否した学習者に対する薬物迫害と人体実験に直接関与しており、中には10年以上薬物で迫害された学習者もいる。健康で頭の回転が速かった多くの学習者が、薬物迫害によって反応が鈍くなり、精神異常をきたし、内臓を損傷し、障害を負いあるいは死亡した。これは氷山の一角に過ぎず、さらに多くの真実がまだ明らかにされていない。

 使用された薬物は、「催眠薬」、「記憶を喪失させる薬」、「幻想薬」、麻薬、媚薬、クロザピン、スルピリド、バルプロ酸ナトリウム、サルブタモール、フルブタノール、フルオキサプロパノール、および他の不明な薬物等である。

 中枢神経を破壊する不明の薬物に迫害された後、人はそれぞれの程度の眠気や脱力感、言語障害、胸の圧迫感や動悸、急速な記憶喪失、正常な思考能力の喪失、生理障害、昏睡、認知、思考の錯乱、躁病、精神崩壊などの症状が現れる。一部の薬物は内臓を直接傷めつけるため、異常な苦痛を感じた学習者は地面を転げ回り、全身のけいれん、五臓六腑が体外へ出るような痛み、心臓の鼓動が異常に加速し、胸と腹が膨らみ、内臓が衰弱し、壁に頭をぶつけたりして、死より辛くなる。

酷刑演示:打毒针(绘画)

拷問のイメージ図:毒薬を注射される

 大連市の学習者・丁振芳さんは、馬三家労働教養所と遼寧省女子刑務所で数十種の拷問を受け、何度も命の危険にさらされた。遼寧省女子刑務所は、丁さんが開放された後労働教養所と刑務所の闇を暴露することを恐れ、口を封じるために出所前の丁さんに不明の薬物を注射した。間もなく帰宅できる頃、丁さんは遼寧省女子刑務所で毒殺された。

 山東省平度市610弁公室洗脳班で、警官は学習者の張付珍さん(38)を殴り倒し、ベッドの上に「大」の字に縛り付け、トイレを使用させずベッドに排泄させた。目撃者によると、張さんは警官によって服を剥ぎ取られ、すべての頭髪を剃られ、拷問され侮辱を受けた後、強制的に不明な薬物を注射された。注射された後、張さんはすぐ狂ったようにもがき始め、そのままベッドの上で悶え苦しんで死亡した。その場に居合わせた610弁公室の関係者らは、これらの一部始終を見ていたという。

張付珍さん

 二、成都新津洗脳班の罪悪 邪悪な薬物迫害と毒殺

 新津洗脳班(対外「法制教育センター」と称する)は、四川省成都市新津県花橋鎮に位置し、精神的な拷問、脅迫、心理暗示、暴力、薬物迫害(痕跡を残さない)など様々な方法で学習者に信念を放棄させようとしている。学習者への迫害により、今まで少なくとも7人が死亡し、少なくとも5人が毒殺され、多くの学習者が障害を負い、心神喪失した。

 謝徳清さん(69)は、四川省成都調査設計研究所の退職者である。2009年4月29日の午前、謝さん夫婦は四川省成都高新区裁判所の近くで不当に連行され、新津洗脳班に送られた。わずか20数日後、元気だった謝さんは新津洗脳班で迫害され、骨と皮ばかりに痩せこけ、失禁し、水も飲み込めなくなり、ひどい狭心症に陥った。5月23日、謝さんは帰宅したが、4日間ほとんど昏睡状態で、手を心臓部位に当て、内臓が引き裂かれるような激痛に呻き声を上げていた。5月27日の夜、謝さんは死亡した。亡くなった時に、両手は黒くなり、遺体も徐々に黒くなり、毒々しい状態であった。

 

迫害される前の謝徳清さん

迫害を受けた後の謝徳清さん

 成都市新都区に在住の劉生楽さん(53歳、女性)は、2003年4月5日午後、散歩中に連行され、15日後に新津洗脳班に送られた。家族が1000元の罰金を支払った後、5月23日、劉さんは家族に連れられて自宅に帰ったが、その時の劉さんは裸足で、頭が腫れ上がり、胸は青紫の色になり、腹部が大きく膨らみ、口から白い泡を吐いていて全身が痛み、一日中手で腹部を押さえている(謝徳清さんの症状と似ている)という悲惨な状態であった。わずか3日後の5月26、劉さんは亡くなった。

 温江区和盛鎮の元副鎮長の陳金華さんは、2010年5月28日、新津洗脳班に連行された。翌日、洗脳班の関係者は健康だった陳さんを押さえつけ、点滴を行った。点滴の最中、陳さんは息苦しく呼吸困難になったため、点滴を中止した。翌日になると、陳さんはまた点滴を強制されたが、陳さんは決して点滴しないと強く抵抗した。その時、陳さんはますます呼吸困難になり、喉が極度に嗄れて話すこともできず、目がぼうっとしていて自力で生活ができなくなった。陳さんが帰宅した後、周りの人たちは陳さんの様子が異常なことに気づいた。

 新津県の李光艶さん(70)は2011年6月21日午前、新津蔡湾洗脳班に連行された。当日、李さんは洗脳班で昼食を口にしてから30分後に、突然胸が重くなり、頭が腫れあがって爆発しそうな感覚になり、心臓が焼かれ引き裂かれるような苦痛を感じた。また、顔が腫れ、唇と顔が黒く、全身の力が抜けるなどの症状が現れた。李さんは以前新津洗脳班で迫害されたことがあり、この毒性反応は洗脳班が食事に毒薬を投入し、学習者の中枢神経を破壊し、学習者を混乱状態にして「懺悔書」を書かせるためであることを知っていた。

 尹華鳳さんは徳陽市黄許鎮に在住、有能で頭の回転が速い美しい女性だったが、1999年以降のある日、成都大学で法輪功迫害の実態を伝えていた時に連行され、成都610弁公室の人員により新津洗脳班に送られ、不明な薬物を強制的に注射された。 尹さんは、監視役と警官が見ていない時に注射針とチューブの接続部分を外し、すべての薬を体内に入れなかった。当時、不明薬物を注射された他の学習者は、耳鳴り、目のかすみ、舌のこわばり、手足の脱力、反応の鈍さなどに苦しんでいたが、尹さんの症状はゆっくりと進行したものであった。

 尹さんが帰宅した後、友人や親戚は明らかに尹さんの話のスピードが遅くなり、ろれつが回らず、数キロの重さのものが持ち上げられないことに気づき、洗脳班から帰宅してからずっとこの状態が続いていた。成分不明の薬物には内臓を損傷する成分が含まれていると推測されている。2005年、尹さんは慢性中毒と長年にわたる迫害により死亡した。

 成都温江区の白群芳さんは、2010年9月15日に新津洗脳班に連行された。10月15日午後3時30分、洗脳班の医者が突然薬を持って来て、病気のない白さんに点滴をしようとした。白さんは拒否したが、無理やり点滴された。3回目の点滴の後、白さんはトイレに行き、顔を洗って戻った時、ベッドに倒れて動けなくなり、声も出なくなった。新津県病院に行き、医師からどんな薬を投与されたのかと聞かれたとき、付き添いの警官らは無言だった。白さんの顔には渦巻きの模様ができ、手には薬物中毒の症状があり、命にかかわる状態であることがわった。医師はすぐに白さんに救急薬を2本渡し、すぐに入院するようにと言ったが、付き添いの関係者は入院しないと答えた。その後、白さんは動けず、半身不随で話すこともできない状態で家に放り投げられた。

 彭州市軍楽鎮香水村に在住の周善会さんは、2008年7月3日に新津洗脳班に連行された。同年9月9日、周さんは断食して迫害に抗議したため、成分不明の液体を灌食された。周さんは灌食されたとき、とてもしょっぱいと感じたが、その後すぐに全身に痛みを感じ、ますます痛みが激しくなり、一晩中ベッドで転げ回っていた。翌日、死にそうになったので、やっと病院に搬送された。医者の診断書には「両肺が黒くなり、胆のうがすでに壊死している」と書かれていた。その後、洗脳班側は責任を負うことを恐れて、すぐに周さんを帰宅させた。帰宅した周さんは普通にご飯を食べられずに記憶も低下し、自立生活が困難になった。

 資陽市雁江区に在住の董玉英さん(60)は、2007年3月16日に新津洗脳班に連行された。3月17日正午、董さんは残ったスープの中に白い粉があるのを見た。30分ほどして、董さんはめまい、激しい眠気、心臓や胃の不快感、イライラするなどの症状が現れた。続いて、数人の男性は数袋の黒い液体を董さんに点滴した。それから間もなく、董さんは突然目がかすみ、幻覚が見え始め、耳には様々な音が聞こえ、頭は激しい苦痛を感じ、脳細胞がすべてひどく損傷したような感覚に陥った。突然精神分裂しないように、一分一秒を必死に闘い抑えなければならなかった。

 これらの症状は、時折発作を起こしながら数年間続いた。家族の話によると、迫害された後の董さんはいつもぼうっとしていて、記憶のほとんどを失い、髪の毛も真っ白になってしまったという。

 国家7111工場のエンジニアであった楊建中さんはかつて、国の航空宇宙事業に多大な貢献をした。2008年8月22日、楊さんは新津洗脳班に連行された。そこに連行されて間もなく、楊さんは一日中めまいがして眠くなり、朝ご飯を食べたらすぐ眠たくなり、監視役が「昼ご飯だ」と呼んでも起きようとしなかった。帰宅した後も、楊さんは記憶を失い、以前のことが何一つ思い出せなかったという。

 四川省ラジオ局の元幹部である李喜慧さんは、2004年8月末、イギリスに帰る姉を見送った際に、空港で連行されて新津洗脳班に送られた。2005年頃、両親と同僚が李さんを見舞いに行ったとき、李さんは意識が朦朧として無表情で、眼の前の両親と同僚を見ても分からなかった。毒薬を注射された可能性があると推測されている。

 成都市温江区永寧鎮八角村の趙玉清さん(47)は、2004年4月13日に新津洗脳班に連行され、胃が痛む薬物を飲まされ、耐えがたい苦しみを経験した。警官は「お前を殺してやる。お前は知っているのか? 医者はナイフを使わず血を見ずに殺すのだ 」と言いながら、張医者と一緒に中枢神経を破壊する薬物を大量に注射した。注射された後、趙さんはめまいがして非常に眠たくなり、目が覚めると、地面に立てられなくなり、全身が脱力状態に陥った。

 成都市成華区に住む李文鳳さんは、2011年5月4日5時頃、新津洗脳班に連行された。拘禁されている3カ月の間、李さんは毎日頭がくらくらし、力が抜け身体が弱り、目が腫れるなどの中毒症状が現れた。また、便が赤くなったり、緑色になったりした。

 四川綿工場の青年社員である譚紹蘭さんは、2003年9月に新津洗脳班に連行され、不明な薬物を注射された。2005年1月25日に解放された時の譚さんは、すでに意識が朦朧として、無表情で何も認識できず、髪は乱れている状態だった。

 譚さんをよく知っている人たちはショックを受け、「歌も踊りも上手な優しい人をこんな悲惨な状態にするなんて、この政府は何をやっているのだ! 道義はどこにあるのだ!」言った。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/2/19/456860.html)
 
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