文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2023年5月10日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
この1年ほどで、私は「自我」を放下する修煉過程を何度も経験しました。これらの過程を書き出して師父にご報告するとともに、同修の皆さんと共有したいと思います。
一、「自我」が養われていた
2021年、家の中で多くのことが立て続けに起きた後、自分の修煉状態が少しおかしいと感じました。法を学ぶとき、眠くなることはありませんが、新しい法理が見えてこず、以前法を学ぶ中で感じていた神聖さも素晴らしさもなくなりました。
その頃、地方の疫病が再び流行し、私と子供は家で仕事や勉強をすることになりました。ある日、私が発正念をしていると、子供が「ママ、手が倒れているよ!」と大声で言うのが聞こえました。目を開けて自分の手を見てみると、倒れていませんでした。子供は「ずいぶん早く立て直したね!」とやや嘲笑的に言いました。私は「先ほど、うとうとしていたかも。正念を保たなければ」と自分に言い聞かせ、その後の発正念で常に目を覚ますように注意し、子供にも見てもらうようにしました。しかし、驚いたことに、その後の発正念の度に子供に注意されました。私がずっと同じ調子でいるのを見て、子供は私を放っておきました。
そこで、私は携帯電話で自分の発正念の全過程を録画しました。映像を確認した途端、びっくりした私は冷や汗が出ました。「正念を発するどころか、ずっと寝ているではないか?!」と思った私は今度、自分の静功を煉る全過程を録画しました。やはりずっとうとうとしていた状態でした。私は発正念を強化し、ずっと目が覚めている状態にいるように努めました。
最初は妨害が大きくて、すぐに眠くなってしまいました。そこで、私は15分間の発正念を繰り返し行い、自分の手が倒れなくなるまで続けました。その間、私は抱輪を長時間行い、徐々に状態が良くなりました。
師父はこのようにおっしゃっています。「自分の身体を制御する意志すらなく、いつももうろうとしていて、元気が出ません。そうなると、副意識や他の空間からの信息がすぐ邪魔に入ろうとします」[1]
目を閉じるとついつい眠くなってしまう自分がひどく妨害されていると思い、私は主意識を強化しようと、毎日1回、暗記できた『論語』を見ずに書き出すことにしました。書く過程で、ついつい上の空になったり、眠くなったりして、うまく書き出せませんでした。一字でも間違えたら、一からやり直すと決めた私は、ある日、7回も書いてやっとできました。さらに、法の暗記にも力を入れた結果、数カ月後、私の主意識はだいぶ強くなりました。
しかし、心性の面においてどこに問題があったかはずっと分からず、悟らない私に、師父は啓示を下さいました。そこで、私は「自我」が問題であることが分かりました。名・利・情を前にして心があまり動じない自分がそこそこうまく修煉できていると思っていた私は、実際、この「独り善がり」の温床の中で寝転びながら、「自我」を大きく育てていました。
師父の新経文『目覚めよ』を暗記する際、「精進しているように見え」[2]、「うまく人を惑わしている」[2]を目にして、「これはまさに私のことではないか?!」と思いました。一見、私は修煉していますが、本質的な部分はまったく変わっていません。同修を惑わしただけでなく、自分自身をも騙していました。
二、同修間のトラブルの中で「自我」をはっきり見分ける
「自我」の存在に気づいてから、師父はある出来事をもって、私にこの「自我」の表現形式をはっきりと見せて下さいました。
学法グループの中に、姉妹の同修がいます。ある日、2人は家庭のトラブルに陥り、なかなか抜け出せません。トラブルを避けようとする妹は学法グループに来ようとせず、妹のことが気に入らない姉は病業の関に遭いました。
これを目にした私は、以下の師父の経文を思い出しました。「二人の間にトラブルがあり、第三者がそれを見たら、この第三者まで自分のどこに間違いがあるのか、なぜ私がこれを見たのか考えるべきです」[3]
「彼女たちに存在する問題は、私にもあるのではないか?」と考えた時、それが「自我」への執着だと気づきました。物事のうわべだけの是非に執着し、自分の基準で他人を計り、自我の認識にしがみつきます。利益心や怨む心、不平不満に思う気持ち、そして嫉妬心などはみな、「自我」への執着に由来し、「私」からきています。
私は自分の認識を姉妹に伝えましたが、2人はまだ激しい感情の渦中にいるため、落ち着いて聞いてくれませんでした。夜、私は2人の人心が解体されるように発正念を行い、しばらくの間そうし続けました。不思議なことに、程なくして2人は各々自ら訪ねてきて、交流してみると、とても理性的でした。そのとき、私はこう言いました。「事の真相が何であるかはちっとも重要ではありません。迷いの世界にいる私たちは、真相を見抜くこともできません。私たちは修煉者なので、心性を向上させていくのが肝心です」
「私たち大法弟子はまだ迷いの中で修煉しているので、物事の表面的な是非に拘泥してはならず、初志を忘れてはいけません。何かが起こるのは良いことです。そこから自分の動じてしまった人心を見つけることができ、その人心を取り除くことがもっとも価値あることです」
物事の表面から抜け出した2人の同修は、まもなく自分の人心を見つけて、心性も素早く向上してきました。「自我」を突破した姉は非常に精進していて、さまざまな人心をキッパリと取り除き、より積極的に迫害の実態を伝えるようになりました。妹は遅く修煉を始めましたが、法理が分かってからさらに精進するようになり、大きな病業の関を乗り越えました。2人の姉妹はともに三つのことに励んでいます。
三、謙虚
上記の直後に起きた出来事で、私は「自我」が向上を遮る大きな障碍であることが分かりました。
ある日、ある同修は私に、自分の娘(同修)が私からもらった手紙を読んだ後、修煉の自信を失い、修煉したくなくなったと言いました。彼女の娘が長い間魔難から抜け出せないのを見て、私は助けるつもりで、時々励ます言葉を書いて送っています。同修から話を聞いてから、私はすぐに自分の問題を探し始め、同修によくない影響をもたらしたことを自責しました。
帰宅後、私は師父の写真の前で涙を流しながら助けを求めました。「弟子は間違いました。自分のどの発言が同修のマイナス的な感情を誘発してしまったかは分かりませんが、魔難から抜け出せない同修のことをずっと気にするのも執着で、間違いです。どうかそのよくない影響を取り除き、同修が魔難から抜け出せるように助けて下さい」。その後、同修を妨害しているすべての邪悪要素が取り除かれるように、私は長時間発正念をしました。それが今までの発正念の中で、もっとも集中ができて、もっとも力強いものでした。
徐々に、私は自分の問題が分かってきました。今まで、グループ交流の時、私はよく自分の悟ったことを同修たちと分かち合い、皆もそれに同感してくれていました。次第に、私は自分の認識に執着し始めました。魔難に陥った同修がいると、私は自分の認識を同修に伝えるのが好きで、同修もその場で「とても理に叶う」と言ってくれました。しかし、しばらく経っても、同修の修煉状態に改善が見られず、理由が分かりませんでした。その後、私はすべての背後に隠されている人心、「自我」の認識への固執が原因だと気づきました。自分の認識を高く評価してしまったとき、その「自我」が壁となって、同修の向上を遮ってしまいました。その「自我」を放下しなければならないと思いました。
上記のことが分かってから、今まで戸惑っていた問題もはっきりと見えるようになった気がしました。翌朝、私は同修の家に行って、娘さんに謝りました。法理に則って同修と交流を交わした後、「あなたと話してから、急に心が晴れやかになって、希望も感じました」と同修に言われて、私はこう言いました。「これは私の能力によるものではありません。私が自我を放下した上、私たちは一緒に法理に基づいて交流したからこそ、大法があなたを変えたのです。私たちがすべきことは、自我を放下し、謙虚になって手を携えてともに進むことです」
交流の中で、私はあるネガティブな要素がずっと同修の正念を妨げていると気づきました。夜、私は発正念の最後に、「このよくない要素を取り除く」という一念を加えました。そのネガティブな要素が解体されまいとして私を眠くさせ、何をしても元気が出ないように妨害しました。それがその最後のもがきだと分かっている私は、2日間かけてそれを取り除きました。
私は目に見えている同修の振る舞いなどに動揺しなくなりました。なぜなら、それが同修の「真の自我」の現れではないことが分かったからです。以前、私はよく同修のことで気をもみ、実はそれはすべて人心です。自分の認識を手放さないと、しばしば逆効果を招くのです。
四、「自我」を放下し、慈悲が生まれる
この「自我」を放下する修煉過程で深く感じたもう一つのことは、異なる修煉段階では、放下すべきものも違ってくるということです。「自我」には、目に見えるものと見えないものがあって、見えないものはなかなか見分けがつきません。一つの認識に固執してしまうと、突破や向上が難しくなります。その典型的な例として、自分の認識が他人より高いと思い込み、他人を見下すことです。実はこれは非常に危険なことです。修煉の中で、私たちは絶えず自分を再認識し、絶え間なく「自我」を放下していく必要があります。
「自我」を放下できた時、私は謙虚さ、包容、生命に対する善意ある理解を感じ、すべての生命を大切に思う気持ちになりました。同修と向き合うと、私は皆がこの上なく貴重で、偉大であると感じました。20年以上、皆が邪悪による圧力を前にして諦めず、尻込みせず、ますます成熟し、ますます堅固としているのです。
警官を前にしたとき、私はその縁を大切にし、友人と話すように真実を伝え、真・善・忍に賛同してもらいました。そうしてはじめて、衆生の期待に応えることができ、それが一種の慈悲の状態であると思いました。
この間、同修と一緒に進めてきたプロジェクトの仕上げの段階で、私は私の事情で最後まで対応できなくなり、同修に任せようと、作業手順を細かく紙に書き留めました。技術的に未熟な同修は、長い時間をかけてもうまく処理できず、鬱憤だけが溜まった末、私に会ったら必ず文句を言ってやると思ったそうです。再会して、微笑んでいる私を見たとき、彼女は何も思い出せなくなり、まるで何も起きなかったかのようでした。後日、彼女からその一部始終を聞いたとき、私も感無量でした。これは、真の善、真の慈悲には言葉を必要としないことを、師父が教えて下さったのだと思いました。
その後の学法の中で、私は生命の本源から来る師父に対する謙虚さと敬虔さを感じ、しばしば新しい法理が分かってきます。毎日、法を学ぶことは私にとってもっとも幸せなことです。大法の殊勝さと素晴らしさは、言葉では言い表せません。
以上は私の修煉中の浅はかな体験ですが、次元に限りがあり、不足する部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
[3] 李洪志師父の著作:『米国東部法会での説法』
(明慧ネット第19回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)