文/中国山東省の大法弟子
【明慧日本2025年4月4日】ある日、私は親戚の家に手伝いに行きましたが、帰ってきた後、妹が「余計なことをした」と言い、ある一言を言うべきではなかったと言いました。それから、私がどうだったとか、色々言われ、とにかく私が間違っていると言われました。
その時、私は母の家で食事をしていて、妹が私のことをそう言うのを聞いて、心がとてもつらかったです。反論したい気持はありましたが、言わなかったのは、自分を抑えることが大切だと気づいたからです。私は黙って妹の言葉を最後まで聞きました。そして、心の中で自分がどこで間違ったのか探しました。
確かに、その時、私は余計なことを言うべきではなかったと感じました。自分の思いや言葉を修めることに注意を払っていなかったことに気づきました。自分ではただ何気なく言った一言だと思ったのですが、その時、相手の気持ちを考えず、相手がその言葉を受け入れられるかどうかを考えませんでした。私は善意で言ったつもりでしたが、それが相手に傷を与えてしまったのかもしれません。
このことを理解したとき、私は自分が本当に間違っていたことを認めました。そして、妹があのような口調で私に言ったのも無理はないと感じました。しかし、私はその時、真に内に向けて探していませんでした。夜に学法をしているときになって、ようやく自分がどこで間違ったのかを考えることができました。
他人にアドバイスを与えたり、上から目線で意見を言ったりすることが多いと、つい自分が賢いと思い込んでしまいます。「自分は知識が多い」、「自分の考えは正しい」、「自分は賢い」と思い込み、気づかずに「自我」を中心に物事を考えてしまいます。私にはこの「自我」が本当に強く、しかし、これまで自分が「自己中心的ではない」と思い込んでいました。同修と交流しているとき、同修に「自我を放下しなければならない」、「自我に執着してはいけない」と言っていましたが、実は自分自身の中で「自我」を中心に考える心がとても強いことに気づきませんでした。
今、深く探してみると、それは「偽りの自我」であり、真の自我ではないことがわかりました。それは後天的に形成された観念であり、私はそれを手放し、修めて取り除くべきで、それは旧勢力が私の生活に無意識のうちに強制的に植え付けた観念であり、今まで気づかなかったのです。
今、私は奥深く探し、ようやく見つけました。それは「偽りの自我」であり、真の自我ではなく、後天的に形成された観念です。私はそれを必要とせず、取り除かなければなりません。それは旧勢力が私が子供の頃から大人になるまで、私の生活に押し付けてきた観念で、私はずっとそれに気づいていませんでした。
だから、最近母親(同修)が私の前で「自我」に執着している様子をよく見せて、なかなか改めようとしないのは、私に「自我」の執着心を気づかせるためだったのです。妹がいつも私の前で母親のことを話し、私がそれを聞いても、自分の内に向けて探さず、母親が「自我」にあまりにも執着していると思っていました。どんなことでも母親は正しいと、彼女が全部決めていました。私はそれを指摘したことがありましたが、母親は一度も変わりませんでした。そして、母親は毎回後悔するものの、次回もまた同じことを繰り返していました。実はこれは私に見せるためであって、私は気づかず、自分の内に向けて探すことなく、何度もチャンスを逃していました。妹の刺激的な言葉で私は目が覚めました。問題は私自身にあり、「自我」に執着していて、自己中心的で、人の師になりたがっています。その執着は、それは偽りの「自分」であり、必ず修めて取り除かなければなりません。
最近、私の周りの同修も、「自我」に強く執着している人がいて、どんなに交流しても聞き入れず、自分が正しくて、他人が間違っていると固執していました。本当に「自我」にこだわっている様子でした。今思えば、これもすべて私に見せるためのものだったのです。私はあまりにも鈍く、何度もチャンスを逃してしまい、今日ようやく悟ることができました。本当に師父に申し訳ない気持ちでいっぱいです。弟子は必ず自分をしっかり修め、より精進していきます。
(編集責任者:李明)