文/遼寧省大連市の大法弟子
【明慧日本2023年8月10日】
大法と縁を結ぶ
1993年、私が10歳のころ、法輪功を修煉していた曾祖母は、「大連に生き仏様が法を伝えているよ。これは本当の佛様で、ハスの花の上に座っているの。父さんと母さんに伝えて連れて行ってもらいなさい」と、私に教えてくれました。私は曾祖母の言うとおりにしましたが、子供の言うことは誰も聞く耳を持ちませんでした。歳をとった曾祖母も、家族にこの素晴らしい大法を修煉しようと勧めましたが、家族のみんなはお金を稼ぐことに精一杯で、誰も聞いてくれませんでした。
曾祖母が亡くなり、『法輪功』という本を残しました。当時、おばあちゃんっ子だった私は祖母の家で遊ぶ時、本棚を調べていると、『法輪功』という本が見つかりました。私はその本を開くと、黄色い服を着て、石の上に座っている男の人を見かけました。私はその本を続けて読むと、祖母に見つかり、「勉強もしないで気功の本を読むなんてやめなさい!」と怒られ、その本を読むのを禁止されました。しかし、なぜか私はどうしてもその本を読むことが好きで、いくら怒られても、こっそりとその本を読み続けていました。当時はまだ子供だったので、多くの字が読めず、一通り読み終えた後に覚えたのは「天目と元嬰(げんえい)」だけでした。
3年後の1996年、私は13歳になり、その年の秋のある午後の出来事でした。隣人が「法輪功は病気治療と健康保持に役立つものです」と紹介してくれました。縁に恵まれたためか、祖母と両親、そして叔母さんも煉功したいと思うようになりました(私を含め、みんな病気を抱えていた)。
ある秋の午後、私たち一家は隣人と共に功法の動作を学びました。勉強し始めた時、全身に熱いものが流れ、暖かくてとても気持ちよかったことを、私は今でも鮮明に覚えています。あの時、「第二式の功法は四つの輪を抱く動作しかないのですが、かなり長い時間手を上げる必要があり、疲れるかもしれません。辛抱できるか、見てみましょう」と隣人は言いました。私はなんとか辛抱できました。確かに腕はだるかったのですが、体はポカポカしてとても気持ちがよく、掌に何かがぐるぐると回っているのを感じました。のちに、その回っているのは法輪であることを知りました。
この日から、私は正式に法輪功を修煉し始めました。
大法を修煉して、持病がなくなる
13歳の私は、すでに全身に病気を抱えていました。胃の痛み、背中の痛み、腰の痛み、便秘、そして一番悩んでいたのは鼻炎でした。
便秘は生まれつきでした。小さい頃は母がほぐしてくれないと便ができませんでした。少し大きくなると、グリセリンを使わないと排便ができませんでした。長い時は10日間も排便できず、声をあげるほど辛かったのです。いろんな方法を試しても効かなくて、私は辛い痛みで何度も泣き、母も何度も涙を流しました。
鼻炎については、私は年中、毎日鼻水が出てきました。最初は透明な鼻水でした。父と母は漢方医のおじさんに処方してもらい、数千キロの道を渡って私に届けてくれました。小さな粒状の薬で、一回分は手のひらいっぱいの量を飲みました。しかし、時間が経つと症状が軽くなるどころか、悪化してしまい、鼻水が悪臭を放つようになりました。透明だった鼻水は白くなり、そして緑色になり、そのあとは黄色くなり、やがて赤色になりました。つまり鼻から血が流れ出てきました。私はだんだんと匂いを嗅ぐことができなくなり、痛みが増し、鼻が完全に塞いでしまいました。口呼吸しかできず、何を食べても何の味か分からなくなりました。
母は、私を病院まで連れて行って欲しいと父に言いました。私の状況を聞き、医師は私を診察室から離れさせ、父と二人きりになりました。私は医師と父の話を盗み聞きしました。私の病気は鼻の癌に発展しつつあると言うことでした。癌は死を招く病気だと分かっていました。父に気づかれないように、泣き果てた私は懸命に涙を拭きました。診察室から出てきた父は暗い顔をしていましたが、無理して作った笑顔で「大丈夫だよ」と私を慰め、パンとハムを買ってくれました。
家に着くと、私は命の限界を感じ、もう長くは生きられず、こんなに若いのに死んでしまうのかと嘆きました。二度と目が覚めないことを覚悟したので、夜になると、父と母が寝ている間、私はこっそりと遺書を書き、枕の下に置きました。
治療を受けながら死を待つしかない日々の中で、縁に恵まれ、私は父と母と一緒に法輪功を修煉し始めました。修煉し始めてから間もないある日のことでした。私は下校して家に戻り昼ごはんを食べていました。その日、母は私が大好きなにんにくの芽と細切り肉の炒め物を作ってくれました。私は食べながら「今日のニンニクの芽、美味しいね」と言いました。そして母は驚きながら「あなた、今なんて言ったの?」と私に聞きました。私はもう一度「ニンニクの芽、美味しいよ」と言いました。そして私は、匂いが分かるようになり、味を感じることができるようになったと、初めて気づきました。
私はとんでもなく嬉しくなりました。母は「師父があなたを救ってくださったんだ」と言いました。私は師父の法像の前に跪き、叩頭して師父に「ありがとうございます」と言いました。何年間も、匂いがわからず、味もわからなかった私は感激の余り涙を流し、母もすごく感激しました。私は家中を歩き回り匂いを嗅いで、母が作った他の料理の匂いも嗅ぎました。
鼻炎だけでなく、腰の痛み、背中の痛み、胃の痛みなど、他の病気も全て治りました。特に、排便ができるようになりました。
時は流れ、私は大法を修煉して26年が経ちました。大法を修煉して最も凄いと思っていることは「いつまでも若さを保てる」ということです。私の顔には一本のシワもありません。特に、目の周りの皮膚が薄いところでも、アイクリームを塗ったこともないのに、全く皺がなく、笑っても皺ができません。私の肌はいつも引き締まっていて、滑らかで艶のある肌なのです。多くの常人は私の顔を見て、私を「70歳位」だと言いますが、実は私は「80歳後半です。周りの友達は、「不老のお薬でも飲んだのか」と、私の若さを羨ましく思っています。これだけではなく、顔立ちも綺麗になりました。
顔について多く語りましたが、法輪功を修煉して最も良かったことは、若さを保つことができることです。私自身がその一例です。ですからそのことをみんなに伝えたいと思います。
善と慈悲を修める
小さい頃から、私は仇のように悪を恨み、独りよがりの怒りっぽい気性でした。女の子らしい優しさがなく、理にかなうことがありませんでした。間違ったことをしてもそれを認めないし、人にどれだけ優しくされても、小さな事一つだけでも私の意にそぐわないなら、私は即座に怒り出し、その人と一切付き合うことをしませんでした。お菓子などご褒美をもらう時、貪欲な私は、少しでも多くもらいたいと思い、兄弟姉妹に体当たりして大喧嘩するのは常でした。感謝の気持ちなど、全くありませんでした。親や親戚はどれだけ私に道理を教えようとしても、私は改めることなくいつものようにしていました。
このような気性で、私はいつも体罰を受けていましたが、体罰でも説教でも、私は改心しようとしませんでした。母は「あなた1人の世話をするには3人分の世話より苦労する」「この気性のままじゃ、大人になっても友達ができませんから」と良く話していました。こうして、私は親を大変困らせていました。
しかし、この文章を書いている今、私は優しく物静かな女性になったことを、私自身、思いもよりませんでした。以前のような怒りっぽい気性はなくなり、どんな場面でも辛いことを我慢することができ、包容する気持ちが持てるようになりました。私を傷つけた人に対しても恨みを持たず、悪口を言われても怒ったりしません。これらのことは、私の人心を捨てるため、私の向上のための試練で、とてもよいことだと分かったからです。師父と大法が私をこのようにしてくださいました。大法は、私の心を改変し、善と慈悲の心を修めることができました。
「情」から歩み出し、自分の使命を果たす
残念なことに、同修である母は2017年に突然、この世を去りました。母は生前、三つのことをちゃんとこなしていました。まだ少しだけ人心が残っていますが、母が円満成就することができたと、私には分かっています。旧勢力の妨害も一因でしょう。法理の面でははっきりとわかっていながら、心の奥底に疑いがありました。一言も残さずこの世を去った母のことで、私は大きなショックを受けました。
母の葬儀の数日後、私は夢で母に会いました。母は「私がこの世を去ったのは按排されていたからです」と私に話し、「あなたはよく修煉して、父、叔母などこの一帯の同修たちと一緒に良く修煉するように」と託しました。夢から覚めると、私の心の中の疑いも雲散しました。後で知ったことですが、母の死で、一部の同修たちは多大なショックを受け、修煉を諦めていました。でも邪悪勢力の罠にかかることなく、これらの同修たちは修煉を再開しました。私も父も、母の支えがなくなっても、転びながらも修煉をし続けて、三つのことも着々とこなしています。
親情は、人間の家庭を維持する最も重要な要素ですので、母を亡くしたダメージで、私の心と体は張り裂けそうなほど辛かったのです。同修たちの励ましと慰めと、叔母たちの支えで、私は立ち直ることができましたが、最も重要なのは、心の中にある師父と大法でした。師父と大法のおかげで、私は母のことを理性的に考えることができました。母を亡くしても、師父がいますので、どれだけ辛くて苦しくても、私は修煉を続けて、師父について本当の家に帰るのです。
私は短期間で立ち直りましたが、父はそうはいきませんでした。父と母はとても仲睦まじく、町の模範夫婦であり、励まし合う同修でもあり、支え合って人々を救う大法のことを行ってきました。母の突然の死を、父はどうしても受け入れず、日に日に衰弱していき、自暴自棄になり、精進することができませんでした。多くの同修は父と交流し、母を亡くした悲しみから歩き出すことを手伝ってくれましたが、父の状態は良い時と悪い時がありました。私も父と何度も交流して、口が酸っぱくなるほど話しても、父は母に対する情を放下することができませんでした。父は母のために多くの詩を書きました、その詩には母に対する想いが溢れていました。
しかしながら、修煉者として、情は必ず捨てなければなりません。一時的にできなくてもまだ理解できますが、四年も経ってもなお情を捨てられないというのは良くありません。師父は、父が立ち直るのを待ってくださいますが、旧勢力の迫害は待ちませんでした。母の死後、父は腰痛と足の痛みに苦しみ続けてきましたが、去年の旧正月の目前に、その痛みが突然強くなりました。私と父は発正念をしても、学法と煉功を多くしても治まらなかったのです。
あの時は、私はとても緊張していました。父のこの状態はとても危なく、私の潜在意識の中で、父を亡くすことがとても怖かったのです。発正念の時も、夢を見る時も、邪悪勢力は私に父の死亡の過程という仮相を見せていました。私はできるだけそれを排除して、認めませんでした。これは私の恐怖心と父への情によるもので、私に対する試練でもあると分かっていたので、これらの心を見つけ出すと、すぐに発正念をしました。
あの時の私は、父と交流する時、口調が良くありませんでした。父があんなに苦しんでいるのは母への情によるものだと私は分かっていましたが、何度交流しても父は聞く耳を持たず、放下もしないので、私は焦ってしまい、口調が厳しくなり、善のある言い方ができませんでした。
そんなある日、某同修の家で、年上の女性同修と私は多く交流しました。彼女の心に響く話で、私はふと悟ることができ、自分自身の問題点に気づき、心の状態をすぐ調整することができました。
ある夜、私は穏やかで落ち着いた口調で、横たわっている父と交流しました。私は自分が出せる最大限の慈悲と善を出して、父と長く話しました。師父の加持もあったので、私の言葉は父の心を響かせ、閉ざされた心の扉を開けることができました。この数年間、父に情を捨てさせるために、父が母のことを話すと、私は耳を背けるだけでなく、父を黙らせていました。そのため父は仕方なく、母への思いを手紙や詩文に綴るしかありませんでした。私は父に圧力をかけ続けてきました。しかし、今の私は慈悲と善を持って父と話すことができたので、父は心の中に秘めた話を私に話すことができました。
またあの夜、私は父の心の声を聞き続けました。実は、父も心の中で焦っています。母への情を捨てようとしていても、まだ足が酷く痛いので、自信がなくなり、諦めようとしました。そこで私は「自信を取り戻してください。あらゆる人心を、特に情は捨てなければならないのです。母はすでに円満成就していて、別の世界で静かに私たちを見守っています。母とのご縁はこの一世だけのご縁です。母は円満成就しており天上にいるのに、父は地上にいる人心で母を思っているのではありませんか。帝辛が女媧の像を見て汚い言葉を発するのと同じではないですか? だから母に対する情は、法理からすると罪を犯していることになるので、父自身にもよくないのですよ」と父に言いました。父は「うん」と頷きました。
私は師父の経文を引用し、「目覚めなさい! 最も困難な道すら歩んできたのに、最後の段階で、どぶで船がひっくり返るかのごとく、ささいな事で大きな失敗を招いてしまわないようにしてください」[1]と父に語り、「父さん、私たちは絶対に良く修煉しましょう! 人間世界でうまく常人の生活が出来なかったのですが、人間世界の物は持っていくことができないからどうでもいいのです。しかし、修煉においては、私たちは必ずちゃんと修煉しないといけないのです。そうでないと、私たち自身に申し訳ないし、師父にも、私たちに希望を託してくれた衆生たちにもあわせる顔がありません。ですから、お互い頑張りましょう!」と励ましました。父はほっこりと笑い出し、自信が持てるようになりました。
私は続いて、「師父は経文の中で、『困難に満ちた道を歩んで来ることができたのですが、最後の道のりで足をすくわれないようにしてください』[2]と説かれています。師父も、私たちの修煉と円満成就を待っていて急いでいます。だから父さん、あなたは必ず元気を出して頑張ってください」と父に語りました。父は「はい、今夜で母とけじめをつけて、今夜を過ぎたらもう二度と母のことを思わない。徹底的に放下する」と言いました。私も「はい」と言いました。
あの夜の後、父は本当に放下することができました。父も交流の文章を書きました。危なかったですね! 父はようやく歩くことができ、足の痛みも消えました。
ある日、私は「他の同修たちに頼らず、自分がこの一帯のことを担うようにし、同修たちのために考え、同修たちの時間を節約するべきだ」と思うようになりました。八百屋で商売をする同修から、見た目が割と新しい紙幣を集め、同修たちのために真相の紙幣を印刷しました。大法のプロジェクトのために消耗品を支度し、文章を編集して、「三退」の名簿を作成いたしました。毎週、同修の全ての小冊子をプラスチックバッグに封じ、父に両面テープの端の糊をナイフで切り取ってもらい、同修が貼りやすいようにしました。「世界法輪大法デー」の文章募集の期間中、私は周りの全ての同修に参加してもらうように促し、「字がわからなければピンインで書きましょう。ピンインがわからなければ似たような発音の字で書きましょう。どうしてもわからなければ、スペースをあけておいて下さい、私が文章を見て埋めてみます」と、全ての同修を励ましました。考えてみると、毎年の文章募集は二度とない貴重なチャンスです。発表されてもされなくても、私は師父のために文章を書くことにしており、重要なのは自分自身の心なのです。師父へのお礼であり、誕生日のお祝いでもあります。
修煉を続けてきたこの長い時間、大法のおかげで、私は生まれ変わりました。師父のご加護に感謝申し上げます!
注:
[1] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』
[2] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』