修煉中のボトルネック
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2023年8月14日】明慧編集部が発表した『お世辞と自分の心より魔が生じる』を読んで、深い感銘を受けました。自身の修煉過程の中にもこのような状況が幾つか存在し、周囲にもこのような現象が生じていることを発見しました。その中から私の個人的な体験と認識を述べたいと思います。

 心を修め、執着を取り除く過程は絶えず修煉を高めていく過程であり、(他の空間の)体の容量が絶えず大きく、心の容量も絶えず拡大していく過程です。執着心は修煉者のすべての次元にある体の上に一つの硬い殻を形成します。執着心を取り除くとその層が対応する殻を取り除き、その殻を取り除くとその空間の体はより高く、よりミクロ的に突破できます。ミクロ的であればあるほどマクロ的になり、修煉者の体も一層大きくなります。このように体と心の容量はそれに伴って拡大し、より多くの法を詰め込むことができ、より多くの法に同化することができます。 

 私は修煉の中で次のような体験をしました。それは人心の執着が少なくなるにつれて、神の考えが多くなり、そこに知恵も現れてきます。

 生死を捨て、根本的な執着を捨てることで、私は修煉の過程で絶えず魔難の試練を体験しました。数年前、心を削り、骨を剥(そ)ぐような修煉において、私は根本的な執着を捨てました。その後、心境に質的な変化を感じ、それは容量の拡大の表れでした。法を学ぶ時、私の知恵は開いたように感じ、法がさまざまな深い意味を示してくれました。そして、修煉の状態も変化しました。

 その頃、学法グループの交流では、他の人が聞いたことのないようなことをよく話していました。そうした中で、他の人は私が悟った法理とか、修煉体験を語るのを聞きたがり、私も自己満足を得て、自分が際立ってすばらしく、他人と違う存在であると感じました。

 ある日、隣の市からある人が私たちの地方に来ました。彼は周囲の学習者によって絶賛されました。彼の天目が非常に優れているとか、彼が悟りを開いたとまで言われていました。その話を聞いた学習者たちは彼に会いたがり、彼に会うのは予約や招待が必要で、彼に会った学習者たちは、喜びでとても興奮しているようでした。もちろん、会った後のグループでの御世辞は絶対に欠かせません。当時、私も彼も「もっと早く知り合いになっていればよかったと思う」、 「賢者は賢者を重んじる」と感じました。彼が話した内容は「かなり認識が高く」、普通の人とは違うと感じていました。その時、私はその人を擁護し、一時期は彼の奇抜なものを宣伝するのを助けました。しかし、この人物は後に周囲の賞賛によりますます自惚れ、傲慢になり、最終的には誰も認めないほど落ちていきました。自分が世界一であると言い出し、明慧ネットすら攻撃するようになりました。私は彼が心より魔が生じたと気付きました。しかし、説得しても変わることはありませんでした。今でも彼は仲間を連れて自己陶酔し、混乱を招く行動をしています。

 これらの経験を振り返ると、非常に恥じ入る思いがします。この失敗の経験は私の心をゆるがしました。彼から、そして自分自身から、修煉者にとっての強力な障害である「私の自我」、「我執」(自我への執着)を見つけました。このような自らのため、私のための「自我への執着」は、修煉過程の中でほとんど気付かれないままに自然に形成されてきました。

 師父はこのようにおっしゃいました。「さらに皆さんに教えますが、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」[1]

 師父の教えから、自分の当時の自己満足とあの外来者の心より魔が生じることが、正にこのミクロ的な次元にある旧い本性の「我執」に起因していることに気付きました。このような「自分への執着」の表れこそが、修煉者が容易に克服できないボトルネックとなります。このボトルネックは一つの関門のようであり、これを乗り越えず、修煉から取り除かない限り、容量は拡大することはありません。その時、自己が「満たされている」と感じ、自己満足に浸るでしょう。それ以上の発展は独善と自己膨張(偉大な存在であると思い込むこと)につながり、そして、自分の心より魔が生じることを引き起こすのです。

 このような「自らのため、私のため」の執着は、修煉者の中に時々現れます。自分では気づかないが、他人には見抜かれる明らかなものがあり、 自分では分からないが他人にも気付かれにくいものもあり、比較的隠されていて、自分では気付かないだけではなく、さらには他人から賞賛されます。

 例えば、誰かが集団の活動に参加する際に携帯電話を持っている場合、他人がこれは安全ではなく、集団全体の安全に影響を及ぼす可能性があると指摘すると、その人はむしろ他人の正念が足りないと非難し、また、自分の正念が強く、恐れる心がないことを示そうとするかもしれません。これは明白な「我執」の表れであり、誰の目にも明らかであり、他人に気付かれることでしょう。

 また、誰かが他人との交流の中で、自分がどのように邪悪な迫害を乗り越えたかについて何度も自慢話をしますが、内に向かって、自分の修煉の漏れがどこにあるか、邪悪にその隙に乗じられて迫害の原因が何かを探しません。もちろん、これら難儀を突破している中、心の固い信念は他人に深い感銘を与えるかもしれませんが、その中に含まれる自己顕示心や歓喜心は「我執」の表れです。これは他人では気付きにくい執着です。

 例えば、ある学法グループの責任者は、自分自身の物事のやり方を自慢します。時には、皆を共に向上させるという善意の考えかもしれません。しかし、彼が宣伝しているのは自分自身のものであり、その結果、他の人々を自分の追随者にするように促しています。無意識のうちに、他の人々を偏った方向へ連れて行きました。もちろん、自分の天目から見たことに執着し、自分が認識した法理に執着し、興味津々に話す人もいます。人前で話すことが得意であり、学習者たちからの称賛に執着し、「権威」の満足感を持つ人もいます。また、自分の意思を他の人々に押し付け、チーム全体の協調に圓容することよりも自分自身の存在を強調する人もいます。それらは全部「我執」の表れです。修煉者として、彼らは自分がどうあるべきかを強調し過ぎる人は、実は自分のすべてが師父から与えられたことを忘れています。正念で難関を乗り越えたこと、天目で見えたもの、新しい法理を悟ったこと、またあなたの知恵などのすべては師父から与えられたのです

 時折、私は考えます。なぜ一部の人々の修煉が「かなり良い」ように見え、自分の心より魔が生じるのか。そして、半ば悟りを開いた状態にある修煉者でさえも、自分の心より魔が生じることになったのでしょうか? 実に悲しいことであり、深く考えさせられることです。私はこれらの人々がしばしば「我執」の関門でつまずいていることに気付きました。本質的には、彼らの「自らのため、私のため」という以前の本性がまだ取り除かれていない状態です。これが彼らの修煉において越えることのできないボトルネックとなっています。修煉者たちの「我執」が修煉コミュニティで称賛や賞賛を受ける場合、それが顕著になると、彼らは自分自身を過大評価し、自己満足的になり、時には自分の心より魔が生じてしまうことがあります。

 末法時期において、旧宇宙の生命は法から逸脱し、すべての生命は劫難の中にあります。新しい宇宙に入るためには、生まれ変わらなければなりません。以前の旧宇宙に存在していた「自らのため、私のため」の本性を、新しい宇宙の無私無我、他人を先に、自分をあとにする状態に同化させます。これは生まれ変わる本質的な変化でなければなりません。

 正法の中で、彼らは自分を変えたくありません(我執の表れ)が、他人を変えようと考えています。この「自らのため、私のため」の我執の本質的な変化を拒むことは、新宇宙の法理に同化するための大きな障壁となります。

 したがって、修煉の中での「我執」や「私のための私」を取り去ることができるかどうかは、修煉者にとって、大きなボトルネックです。このボトルネックを取り去らない限り、修煉者は行き詰まった状態になり、ミクロ次元の「私我」を取り除かない限り、新宇宙へ進む大きな障壁となります。あまり適切でない例えですが、心の中に法を入れ込む瓶が一杯になることがありますが、「私のための私」が取り除かれないため、より大きな容量の瓶に変えることができず、一定の段階に達すると、元の瓶にはもはや法を入れるスペースがなくなり、修煉が停滞することになります。そして、自分が頂点に達したと感じ、自分が偉いと感じます。その時、あなたが修煉者の中で目立っていると感じた場合、他人のお世辞や賞賛が加わると、本当に自己膨脹的になり、自分の心より魔が生じる可能性があります。

 この時、もしもその「私我」(私のための私)を認識し、それを取り除くことができれば、このボトルネックは解消され、あなたの心にある法を入れる元々の小さな瓶を大きな瓶に交換することができます。あなたの容量も広がり、この時、以前の小さな瓶に入れていた法を新しい大きな瓶に移します。ただその量は、大きい瓶の底にあるだけです。そして、以前の認識は非常に低く、取るに足らない考えであり、「間違っている」ことさえあると気づくでしょう。

 大法は無辺であり、修煉中の修煉者がどうして偉大な感覚を持つことができるでしょうか。たとえ悟った人でも、そういった感覚を持つべきではありません。まるで広大な海の中で、小さな瓶にわずかな海水を詰めたとしても、あなたは無限の海水を詰め込んだ感覚を持つことはないでしょう。もし本当にそのような偉大な感覚があるとすれば、それはむしろあなたの容量が足りないこと、あなたの容量が小さいことを示しており、あなたの学法が根本的に不足していることを示しています。精進をすべき時ですし、容量を大きくする時です。

 確固とした真の修煉者は謙虚です!

 これは個人的な浅い理解ですので、不足があれば慈悲深くご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」

 【編注:本文は筆者の現在の修煉状態における個人的な理解を表しており、同修と共に切磋琢磨し、「比学比修」を心がけるものです。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/1/463678.html)