普段の生活における些細な出来ごとで修煉を体験
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年9月16日】普段の生活における些細な出来ごとは、修煉者の心性が常に試されています。自分を真の修煉者と見なしているかどうかを確認することができ、私はその玄妙さを体験しました。

 ある日、父親(修煉していない)の服を洗濯するために実家に帰りました。洗濯が終わって蛇口を閉めるとチョロチョロと細い水が流れており、どんなに力を入れてもそれ以上蛇口が閉まりませんでした。少し焦って、何度も蛇口を回した結果、蛇口のノブ(プラスチック製、かなり古くなっている)が外れてしまいました。どうすればよいのか、このまま水を流し続けるわけにはいきません。父は高齢で足腰が不自由で、周りには父の他には誰もいません。私は焦ってしまい再び蛇口を力いっぱいひねりました。すると、なんと蛇口全体が取れてしまい、しかも水が噴き出してしまいました。

 以前、私が家を借りていた時、そのような状況に遭遇したことがあったのですが、実家の水道管は都会の水道管とは違っていたのです。水が飛び出すのを見て唖然とし、元栓も見つからず、キッチンの床やリビングの床全体が水浸しになり、次第にパニックになってしまいました。

 慌てて父を呼び、元栓がどこにあるのかと尋ねました。父は高齢のため、思考や行動のあらゆる面が非常に鈍く、水が噴き出すのを見てただ焦り、「分からない」と言いました。加えて、「洗濯しただけでなぜこんな事になるのか」と叱り、一方で「早く蛇口の元栓を閉めなさい」と言いました。しゃがんで下の蛇口の元栓を探しましたが、なかなか見つからないので、再び父に「新しく改修した水道パイプの公共マンホールの蓋を開けて、元のバルブを閉めてくれるよう、誰かに頼めないの?」と言うと、父は震えながら「無理だ」と言って怒りました。私はこの時点で、全身ずぶ濡れになっていました。

 本当になす術がなく、私は心の中で「師父、助けてください。弟子はせっかちで、後先を考えずに行動したので、このような状況に陥ってしまいました。師父、どうか助けてください」とお願いしました。

 思いがけず、そう願ったあと、水の流れが小さくなり、ゆっくりと止まっていきました。私は興奮して振り向くと、父の姿が見えません。この後、父が水道管室に行き、元栓を見つけて止めてくれたことが分かりました。父に、「元栓の場所を知っているのに、なぜ知らないと言ったの?」と、その理由を尋ねると、父は「そのときは思い出せなかったんだよ」と言いました。私は窮地で、師父に助けを求めたのですが、「師父が、父にインスピレーションを与えてくださったのだ」と気づきました。

 私はこの出来事から、人間がいかに微小な存在であるか、異次元の神が人間を支配することがどれほど容易であるかを考えました。人の脳にメッセージを送ると、人はそれが自分の考えであると思い込み、脳内の情報に従って行動するようになります。同様に、人間の脳を封印することも非常に簡単で、神は人間の執着、後天的な観念、欲望、思想業を利用して、人間をしっかりとコントロールしています。

 師父は、「実は、人類社会のいかなるものも、私に選択されたなら、私はそれを使って大法弟子を修煉させることができます。たとえば、以前話した音楽のことですが、音楽の勉強と創作の中に大法の指導があれば、その人は進歩でき、考えの中にひらめきが現れ、必要なものに気づき、思いつくことができるのです。それは神の啓示です。言い換えれば、どの領域にいても、あなたの技能が向上できれば、それは自分の境地を高めたあとの現れです。見た目では、あなたは良い人を目指しており、心を修めています。人間の角度から言えば、あなたは良い人になり、法を勉強し、内に向けて修煉しているから、行ないがますます良くなり、そのため、神はあなたに備えるべき智慧とひらめきを与え、勉強の中で多くのことを分からせ、さらに良いものを創造させ、もっとレベルの高い技術を身につけさせ、飛躍があるようにします」[1]と説かれました。

 修煉者は、それぞれの次元で、それぞれの思想領域をもっていますが、私たちの心性がその次元の基準に符合すれば、その次元の法によって智慧が開かれるのです。

 私は、家庭の中で足腰の弱った高齢の親と向き合い、表面上は事をこなしていますが、内心ではイライラしたり、愚痴を言ったり、嫌な思いをしています。こうした感情は、いい加減さ、せっかち、高圧的な態度、モノを大切にしないといった現実に反映されます。高齢の父には、新しいものでも古いものでも、家にある物すべて「他人に触られたくない」という癖が根強くあります。私が部屋を片づけるため、古い段ボールを捨てようとしますが、父はそれを捨てたくないのです。しかし、私はどうしても捨てたいのです。「どうせ私に追いつけないのだから、今回こそ絶対捨てよう」と思いました。すると、父はそこに座ったまま、私の背後で「あなたのこの執拗さを、本当に軽蔑します」とつぶやきました。

 最初、その言葉を聞いてもあまり気にしなかったのですが、「これは父の言ったことではない、これは旧宇宙の神々の考えのようだ。私がムキになって、修煉者の状態ではないことを見て、私を軽蔑しているのだ」と思いました。そして、私は「常人と争うことに、何の意味があるのだろうか」と思い直し、捨てようと思っていたダンボールを持ち帰り、元の場所に戻しました。

 法を正す時期の大法弟子として、私たちの行いは、宇宙のすべての衆生を感服させなければならず、そうして初めて彼らを済度することができるのです。そうでなければ、心性の基準に達せず、自分の大切な修煉すべき領域が修煉されず、事態が大きくなってしまうと、自分では制御できなくなります。この状態は、もはや法の要求する基準に適合しないのです。つまり、その次元の神々はこの修煉者を見下すことになります。この時にもし警戒しなければ、修煉中にあらゆる困難や、妨害が起こる可能性があるのです。あまりに蓄積されれば、あらゆる迫害を引き起こす可能性さえあるのです。

 人生のどの瞬間も、私たちにとって修煉の良い機会なのです。個人的な理解ですので、同修からの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/31/464586.html
 
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