文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月12日】私はこの期間、地元と他の地方の同修が魔難に遭って亡くなったり、命に関わる危険なことに遭ったりしていることを知りました。魔難の原因は非常に複雑ですが多くの場合、邪悪が強い恨みの心を持つ同修に対して、容赦なく迫害していることだと思いました。修煉は厳粛です。私は、怨恨の心が大法弟子たちに深刻な害をもたらしたのを目の当たりにしてきたので、より多くの同修に、この方面での執着心を取り除くことに、注意しなければならないことを伝えたいと思いました。
怨恨は、真・善・忍という宇宙の特性に背きます。怨恨は、私たちが慈悲を持って衆生を救うことを妨げ、同修との間に大きな溝を作り、深刻な場合には、師父と大法に対する恨みにつながります。怨恨は私たち人間の悪い考えとして現れますが、他の空間の底辺では共産主義の悪霊であるなど、異なる邪悪生命と物質的要素であることを私は理解しています。私たちがこれらの邪悪な存在を即時に取り除くことができなければ、宇宙天体に壊滅と深刻な損傷をもたらします。
多くの同修は、怨恨が良くない心だと分かっていても、取り除くのはとても難しく、なかなかきれいに取り除くことができないと感じています。以下、怨恨について私なりの理解、この時期での私自身が実際の怨恨の心を取り除く過程をお話したいと思います。同修に少しでも役立てば幸いです。
確実に観念を変えれば、怨恨の心を容易に取り除くことができます。
以前は、他人を恨むような考えは間違っている、それは真・善・忍に符合していない、その怨恨の念が現れば排斥して取り除くべきだとわかっていましたが、とても受動的な感じで堂々と乗り越えることができず、修煉者であるべき姿にはなっていませんでした。
師父は私たちに、「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」(『精進要旨』「忍とは何か」)と教えてくださいました。
怨恨を除去することの難しさを感じていた私は、ある同修とこのことについて交流しました。同修は、「どうして他人を恨むの? 基準に達していないのはあなたなのですよ。 あなたがいつも基準に達するのが遅れているからこそ、他人がそのような行動をとるのです。実際、その人たちはあなたに向上の機会を提供し、向上のための条件を整えてくれているのに、どうして恨むのですが? 感謝すべきです。あなたが本当に向上し、基準に達していたら、そのような行動をとる人がいるでしょうか」と言いました。
同修の話に衝撃を受けました。私はこのように考えたことはなかったのです。師父は、同修の口を借りて私を目覚めさせてくださったのです。「そうだ、本当に感謝しなければならないのは、私に『害』を与えたと思われる人たちだ! 同修であれ、常人であれ、私の向上のためにやっていることであり、どうして恨むんだろう? 私は本当に感謝しなければならないのだ!」と考えるようになりました。このように心の底から思ったとき、私の心は慈しみの感情で満たされると同時に、自分の怨恨で相手に「害」を与えたことへの罪悪感を感じ、謝罪をしたい気持ちになりました。私の頑固な常人の観念が打ち砕かれ、観念が変ったその瞬間、怨恨という物質が解体されたように感じました。
その日以来、恨みはとても小さくなり、以前のように強く、さまざまに湧き上がることはなくなりました。時には少し出てきても、ふとした瞬間に消えていきました。今回の体験から、怨恨の心を無くすには、観念を変えることがとても重要だとわかりました。
『轉法輪』の中で、師父は、トラブルの中で相手に感謝すべきことを明らかにされ、「一挙四得」の理をはっきり教えてくださいました。私はそれを多く学びましたが、ただ読むだけで、頭に入らず、法を学ぶことと実践することを断絶してしまいました。今になって、これは修煉が怠慢であり、この世に汚染されることで、大法より世の中の名声や利益、情を重く見てしまったのだと気づきました。修煉の概念がなくなると、法が頭に入らなくなりました。今、私は「向上したい、このまま修煉をいいかげんにしてはいけない」と思いました。師父が私を目覚めさせてくださったのです。
人間はなぜ、怨恨の心を持つのでしょうか? 表向きの理由の一つは、人が名、利、情をさまざまな形で傷つけられたと感じたからだと私は見ています。迷いの人間界で、人は名や利、情に対する追求を重く見ており、その価値を感じ、手放すことができません。しかし、修煉者は常人とは正反対で、常人のものを追求しないのです。人間になった目的は、返本帰真であり、名、利、情を重く見てはいけないのです。 実際には、人間の世のすべてが幻であり、この世は修煉できるために作られた謎の空間なのです。
もし、このように理解すれば、この世で名、利、情が傷つけられたとき、観念を変え、修煉の観点から物事を見ることができれば、もはや自分を苦しめているのは悪いことだと思わず、むしろ良いことだと考えられます。これは自分を向上させる機会を与えてくれることだと考えれば、相手に感謝する気持ちになり、当然恨むこともないと思います。
こうして利害による対立で、個人的に敵と思っている人が敵ではなくなり、自分を傷つけたと思っていた人や物事はすべて、自分の心性の向上のためであり、円満成就のための条件や機会を提供され、道を開かれているのだと思うようになります。この時、相手も楽ではないと思い、心から感謝する気持ちが湧いてくるのです。本当にそのような状態に達成することができれば、怨恨の心が生じなくなります。
もちろん、恨みの心を取り除くことは、その背後にある嫉妬などの心を取り除くことにも繋がります。修煉者はそれぞれ修煉体験から認識したものがありますが、私はこの観念の変化という点に関して、私個人の浅い認識を話したに過ぎません。
もし不足なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。