同修に不足を指摘することを恐れていませんか?
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文/中国の青年大法弟子

 【明慧日本2024年2月24日】常人の中で明哲保身や浅い川も深く渡れなどの考え方の影響を受け、ほとんどの人が他人の不足を直接指摘したがりません。それは関係に悪影響を及ぼすことを恐れたり、自分のイメージを損なうことを恐れたりします。また、相手が不快になるのを心配している「善意」もあるかもしれませんが、大部分の理由は自己を守るためです。

 しかし、修煉者は一体であり、相手と自分との間を区別するべきではありません。私たちはみんな自身の執着を全て取り除かなければ円満成就できないことは理解しています。では、同修に対しても同じではないでしょうか? 同修のためを思えば、どこが向上すべきかを伝えるべきです。私はこの道理を分かっているので、家族の同修の不足を見つけるたびに、率直に指摘していました。しかし、その結果、良くない結末になることが多かったのです。最近起こった一件の小さな出来事から、私はこのことについて新たな理解を得ました。そこで、同修と共有し、共に切磋琢磨して向上することを目的として、ここに記したいと思います。

 数日前、家族の同修が恐れる心を抱いて、人を救うことをあまりにも慎重になっているのを見て、彼女のことを心配しました。厳しい言葉で指摘しましたが、彼女は受け入れず、むしろ怒りました。私は我慢できず、彼女と議論しました。議論が終わるたびに、私たちは自分たちの過ちに気づきますが、この状態から抜け出すことができませんでした。

 今回は心を静めて内に探し、自分には強い焦る心があることに気付きました。以前、私は行動が速く、せっかちであることは自分の先天的な特性で、執着には属さないと思っていました。しかし、今では「速い」と「せっかち」は完全に別のことであり、修煉者は効率的でありながらも急がないようにする必要があることを理解しました。子供の頃、『西遊記』で観音菩薩が「悟空」を呼ぶときの口調を鮮明に覚えています。ゆっくりとしていて慈悲深く、しかし厳かです。神仏の力は無限であり、物事を瞬時に成し遂げることができます。そして、ゆったりとして思いやりがあり、雄大です。

 私は自分に他人を押し付ける心、自己中心的な心、他人を見下す心、家族愛、他人の欠点への執着、言葉の辛辣さや極端な行動など、これらの心を長い間持っていることに気付きました。これらの心を重点的に修めないといけないと考えました。平静な気持ちで家族にこう言いました。「もうあなたのことには干渉しない。これからあなたが何をしようと、もう何も言わない。どうせ何を言ってもあなたは変わらないし、向上もできない。私はあなたの言動を見ても何も考えず、無為になる。あなたのことに執着しすぎてはいけない。そうでないと、最終的にはあなたが向上できないし、あなたの執着に執着する私も影響されてしまう」同時に、これらの心を除去するために発正念を強化しました。

 自分の境地が向上したと思い、今後は口を閉ざし、他人に対して上から目線で何かを押し付けることはしないと決めた矢先、『カナダ法会での説法』で次のような一節を学びました。

 「弟子:長期に魔難に遭い乗り越えられない学習者がいますが、指摘してあげたほうがいいのか、それとも本人に学法を通じて自ら悟るようにさせるべきでしょうか?

 師:彼が進歩できない原因が目に付いたら、どうして指摘してあげないのでしょうか? 善意で教えることは何の問題もありません。怒られるのではと恐れているのですか? 相手の態度はちょうど修煉の機会ではありませんか? あなたの話が彼に理解されなくても大丈夫です。常人のこの情も放下しなければならないのではないでしょうか? 問題点に気づいたら、本人に教えなければなりません。ある次元に長く留まって向上しない人がいますが、なかなか向上しないので、ますます本も読まなくなり、精進もしないのです。それでは関や難はますます大きくなり、ますます動揺し、結局、修煉できなくなってしまいます。最初から最後までこのような問題が存在しています。修煉は非常に厳粛なことであり、少しでもいい加減なことをしてはいけません。その基準に達していなければ、決してその次元に入ることはできません。普通の常人が圓満成就まで達し、神聖な大覚者になろうとしているので、この問題をはっきり認識できず、ひいては重要視しなければならないのではありませんか?」

 師父のこの説法を学んだことで、私は自分が悟りが誤っていたことに気づきました。私は取中(中道を取ること)ができず、一つの極端から別の極端に走っていました。自己中心的な考えを人に押し付ける方から、利己的な気持ちで矛盾を避ける方に移ってしまいました。

 無為とは心が動じない状態であり、何も行動しないことではありません。何も直面せずにいたら、それは修行僧と同じではありませんか?私たちは主意識を修めているのです。師父の法によって、同修の不足を指摘することについて、新たな悟りを得ました。

 まず、同修の欠点を指摘することは疑う余地のないことです。指摘した後、主に三つの状況があります。第一は、同修が自分の不足を認め、喜んで聞き入れます。この場合、同修は不足を改め、向上することができます。第二は、同修は当時すぐに受け入れられませんが、態度はまあまあで、後で気づくかもしれません。私たちも同修に対して責任を果たし、前世で約束した「互いに注意し合う」ことを実行したことになります。第三は、同修は指摘を受け入れず、私たちに対して態度が悪いことです。これは他人の欠点を指摘することを妨げる主要な原因であり、おそらくこれは師父が私たちに心性を高める機会を与えてくれたものではないでしょうか? 常人には「怒りは、他人の過ちを利用して自分を罰すること」という言い方がありますが、修煉の視点から見ると、「怒らないことは、他人の過ちで自分を向上させる」ことですね!

 同時に、指摘する際の態度は常に心が平静であり、善意に満ちていることが重要です。自分の感情が巻き込まれて争いになった場合、後でなぜそうなったのか内に向かって探す必要があります。相手の言動や態度がどのような執着心を刺激したのか? 情、焦り、他人を見下すこと、押し付けること、プライド、嫉妬、利己心、自己中心、自己満足など、様々な心の執着心が露わになります。それらをクリアする絶好の機会です。

 したがって、同修の欠点を指摘することは積極的に自分自身を向上させる絶好の機会です。指摘する前に、どのような反応が返ってきても対応できるように心の準備ができています。まるで答えを知っている問題に答えるようなものです。まず穏やかな心理状態を保ち、次にどのような状況でも心性を守れば、同修と自分自身の向上に繋げることができます。誰が向上しても、それは大法弟子の全体的な向上に繋がります。家族や同修の間、または学法グループ内で、このような機会が数多くあります。互いに助け合い、共に飛躍的に向上し、煩悩のない境地に至り、師父が法を正すことより良く手伝うことができるよう精進しましょう

 わずかな悟りであり、足りない点があれば、同修の皆様のご指摘をお願いします。師父の慈悲深さに感謝し、同修の皆様の努力に感謝いたします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/2/20/473425.html)
 
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