文/ 呉意
【明慧日本2024年10月18日】最近、中国で新しくリリースされたゲームが話題になっています。これは、中国古典神話『西遊記』を背景にした戦闘ゲームで、多くの若者に人気です。私が少し調べたところ、ゲームには多くの人に支持されている結末があります。それは、悟空が仏の位を受けず、再び花果山の猿王となり、各地の妖王たちとともに天庭に攻め込む準備をするというものです。最終的には悟空が黒化(魔化)するというストーリーです。
悟空が仏の位を放棄することが彼の黒化の始まりであり、天庭に対する不満や怨恨が高まる原因となります。天庭の抑圧が悟空の怒りや反抗の感情を加速させ、一連の出来事が最終的に悟空の黒化を招くのです。このようなゲームやアニメがたくさんあり、それらをプレイしたり視聴したりする過程で生まれる思想には、私自身恐ろしさを感じ、また深く考えました。
人間の立場からの思考
『黒神話の悟空』は、大人にとっては神や仏が無情であり、善悪を見分けられず、神や仏になっても意味がなく、むしろ束縛から解放され、徹底的に戦う方が良いと思われることもあります。多くの若者は、このようなゲームをプレイして「悟空さえ魔になったのに、我々はまだそんなに情熱を持っているのか。仙になると人情は通じないから、魔になったほうがましだ」と感じます。
このような宣伝が未成年者や青春期の子どもたちにどんな影響を与えるのでしょうか? 彼らは暗黒の権力の中で、手段を選ばずに自分の欲望、名声、富、享楽を手に入れようとするでしょう。たとえその動機や手段が罪深く、悪魔と取引することになっても構わないと思うかもしれません。
現代社会では、極端な個人主義が強調され、道徳が否定されています。人々は、神や仏が天理に従って感情を交えずに秩序正しく行動しているのを見て、悪魔は「神や仏はあなたの自由を制限し、あなたの楽しみを奪う」と言います。これにより、人々は反発し「神や仏に従う規則が多すぎるから、信じない方が良い」と思うようになります。これこそが悪魔が望む結果です。現在、このように神や仏を軽視するアニメやゲームが大量に生まれています。
日常生活やゲームの中で、神に対する疑念や否定的な感情が徐々に植え付けられ、人々が神や仏に対する信仰や畏敬を失うように仕向けられています。その結果、神や仏の庇護から離れることになります。悪魔は様々な機会を利用して、人間の欲望を放縦させ、淫乱、薬物、恐喝、窃盗、嘘などを促進します。その隙をついて、魔の目的を達成しようとします。この時代では、真の神仏信仰があまり問われなくなり、むしろ悪魔が栄える傾向が強まっています。
修煉者の状態についての思考
黒化した悟空は、途中で修煉を放棄した修煉者のようなものです。様々な欲望や執着心により、自分の利益を手放せず、自分自身が魔に堕ちたり、中国当局に洗脳されたりして、反神の道を歩むことになります。そして、これらの「修煉者」が不真剣で不実な修煉者を引き込み、蝶の効果を生み出し、異端の行為に走ることになります。
師父は『轉法輪』の中で指摘されています。「人には感情があるから、怒りも感情、喜びも感情、愛も感情、憎しみも感情、やりたいことも感情、やりたくないことも感情、誰が良いか悪いか、何をしたいかしないか、すべてが感情であり、常人は感情のために生きている」
私個人の理解では、人が人であるのは感情があるからであり、神や仏を人と同じように感情に流される存在と考えてはいけません。実際、神や仏が説く慈悲や博愛は、人間の感情を超えたものです。人間の感情には愛と憎しみがあり、通常は利己的ですが、慈悲と博愛はすべての人を包容し愛するものです。魔もまた人間を超えた次元の生命であり、人間の感情の中には存在しませんが、魔は善や慈悲を語らず、悪に満ちています。
神や仏は世界を創造し、人類を創り出しました。そのため、彼らは道徳の規範を定め、人々が回り道をせずに正しい道に戻るようにしています。言うまでもなく「天が大任をこの人に降しければ、必ずその心志を苦しめ、筋骨を労し」、早く本来の真実に帰るようにしています。しかし今の時代、多くの反神仏の思想が存在し、人々が本来の真実に帰ることを妨げ、師父の正法に従って帰る道を阻んでいます。
虚構(きょこう:事実ではないことを事実らしくつくり上げること)の中で黒化した悟空は、自分を抑制できない人間を象徴しています。虚構の中で黒化した悟空は、道を外れて反逆する人を象徴しています。
神や仏の救いは全人類に向けられていますが、神は無理に人を救おうとはしません。人々が自ら意識し、心の底から変わり、悪魔的な性質を捨てる時にのみ、神の奇跡が現れるのです。