文/カナダの大法弟子
【明慧日本2024年4月7日】私はかつて非常に傲慢でした。その当時は自覚が全くありませんでした。人に対して敬意を持たず、他人のことを自分勝手に批評していました。もちろん、多くの場合は心の中でつぶやくだけで口には出していません。当時は法を学んでも法を得ることができず、さらには、法を何回も暗唱しましたが、法理を持って自分の修煉を指導することができず、法との間に何か隔たりがあるように感じていました。
私は気づきました。それは当時、「人は理屈で納得させることができる」と自惚れていたからです。私は、徐々に自分の傲慢さが削られていき、他人を尊重することを学んだと思うようになりました。
しかし、そのことも後になって、そうではないことに気づきました。
なぜなら、傲慢な習慣は根深く、明らかな部分が取り除かれたとしても、無意識のうちに傲慢な考えや言動はまだ強く現れていたからです。
傲慢さが引き起こす「突起」
同修の蓮さんは、優しい人で素朴で考え方が単純です。私にとって大きな助けになっています。蓮さんは現代の考え方を持っておらず、心の中は伝統的な理念で満たされています。まるで祖母の時代から来たかのような感じです。蓮さんは、よく伝統的な理念を用いて、私の現代の考えを打ち破ってくれます。しかし、そのような蓮さんの助けを受けながらも、私は長い間、蓮さんを見下していたのです。時には、彼女が「愚かすぎる」と感じることさえありました。これらは、私自身の傲慢な習慣から来たものであり、時には自分のこのような見解が非常に客観的だと思い込んでいたからです。
私にとって衝撃的な経験が一つあります。
数カ月間、私は蓮さんに対する否定的な「考え」が非常に強く出ました。突然、手に「突起」が現れました。その突起は骨のように硬く、次第に大きくなりました。私は、自分の問題を見つけられず、ますます大きくなる突起に不安を感じました。そんな時、私が困難に直面したとき、蓮さんは再び優しく助けてくれました。彼女は他人の態度や見解を全く気にしません。私は自分の不徳を懺悔しました。この考えが浮かんだ後、突起は数日のうちに急速に小さくなり、最終的には消えました。この不思議な経験により、私は自分の心性の問題に気付きました。あの「突起」は、私の内面の強固で膨らんだ物質に対応しているのかどうかはわかりませんが、頑固で不徳で狭量で、自分勝手な考え方の後にあるのは「傲慢」だと気づきました。
私は徐々に、敬意のないことは、幼いころから受けた党文化の洗脳教育と関連すると感じるようになりました。私が知っている一部の同修は一生懸命に修煉し、三つのこともしっかりやっています。しかし、傲慢な部分が多く、しばしば他人を見下す傾向があります。このような同修の中には、後に病業を経験した人も多いです。一方、非常に素晴らしい同修もいます。どんな時でも、どんな人に対しても、敬意の心を失わないという特徴があります。このような同修の修煉状態は非常に安定しています。
法から理解したことですが、神は人の心を見ますが、人は成果と能力に注目しており、人の心にはあまり注意を払わないのです。現代人、特に中国本土の人々は、正直で物静かな人や、口数の少ない人に対して傲慢になりがちであり、行動が遅い人や、くどい人に対しても傲慢になりがちです。また、何らかの理由で気に入らない人に対しても傲慢になりがちです。おそらく、それが理由で、物語の中の神々は、しばしば「弱者」の姿で現れて人々を試します。くどい老人や、気がふれた老婆、判断能力のない乞食などです。なぜなら、「弱者」こそが試金石であり、人の心が本当に善良で誠実で謙虚で、敬意なのかを試すことができるからです。
私は以前、蓮さんに対して「傲慢」でしたが、何が深刻な問題だったのでしょうか? よく考えてみました。まず、蓮さんは非常に正直な人であり、昔から言われているようにこのような人を「ひとは騙しても天は騙さない」のです。世の人は正直な人を嫌うことがありますが、神はそうではないのです。このような人は他人を傷つけず、徳を損なわないので、尊重されるべきなのです。第二に、蓮さんは常に私をよく助けてくれましたが、私は彼女に失礼な態度を取りました。自分ではそれほど大したことではないと思っていましたが、「神はそのようには見ていない」と思いました。
現代人は人を評価する際、現代の観念に基づいており、その背後には勝ち負けや人と闘う心が強く存在しています。
私が非常に傲慢で自己中心的だった時期に、同修の中には、私に「修煉状態が良く、自信にあふれている」と言ってくれた人もいました。現代人の多くは「自惚れ」を「自信」と見なし、ある種の高慢な態度や、振る舞いを「強いオーラ」と称賛する傾向があります。現代人が言う「自信に満ち溢れている」とは、多くの場合は「自己満足」なのです。
私の周囲にも、「傲慢」な同修が少なくありません。例えば、重い病業状態の同修の中にも傲慢な人が多くいますが、その多くは自分の傲慢を自覚していないのです。自分が人に対して軽蔑的であり、見下し、嫌悪し、我慢できないといった態度を取っていることに気づかず、「真・善・忍」で自己を量っていないのです。
私の考えが変わると、人に対する見方も変わってきました。
以前は「自信」があると思っていた人は実は「自惚れ」であり、他人に対する尊重が欠けていることに気づきました。敬意はいうまでもありません。また、ちょっとした才能や地位がある人が威張って人を抑えつけ、世に比べる者なしと自惚れていたことにも気づきました。一方、過去に私がひ弱だと思っていた人の多くが、実は素朴で正直であり、人格が善良であることにも気づきました。彼らには自分を持ち上げたり、他人を貶めたり、攻撃したりする悪い習慣がないのです。
古代の人々は「温和・善良・恭敬・節制・謙譲」を提唱していました。『史記』には、宰相晏子の御者が自分を非常に偉いと思っていて非常に傲慢だったという話があります。ある日、御者が家に帰ると、妻が荷物をまとめて実家に帰る準備をしていました。妻はこう言います。「あなたと一緒にいるのはとても恥ずかしいし、恥辱です!」、「今、齊の宰相の御者を務めているのに、光栄だと思わないのか?」と御者が聞きます。妻はこう答えます。「あなたは何も学んでいないのに、大変偉ぶり、傲慢です。本当の宰相は修養と学識がありながら一切を誇示しません」
傲慢の根源
「共産党についての九つの論評」編集部が発表した『共産主義の最終目的(8)』には、次のような二つの段落があります。
「修煉は正心誠意を要求するが、傲慢は悪魔の本性であり、修煉の要求とは完全に逆である。共産主義の邪霊の目には神が存在せず、修煉文化を破壊する過程で、人々に魔性と高慢を植え付け、謙虚さを奨励せず、自己満足や高慢さを助長した。例えば、天や地と戦い、無法の限りを尽し、神にそむき、逆らう方向に人々を導く」
「古代において、人々は正心誠意を持って修煉しなければならず、心の神性の側面が作用する時にのみ、宇宙の特性や神の教えを理解できた。共産主義の邪霊は修煉文化を破壊し、人々の傲慢を増幅させることを通じて、人々を神と完全に対立する心の状態に入らせた。そのため現代人は、周波数の調整されていないラジオのように、共産主義の情報を受け入れやすくなっており、神の知恵や教えを理解することは非常に難しくなっている」
私はこれらを読んで、「傲慢」が一般的な問題ではなく、「傲慢」が原因で、自分が以前法を学んでも法を得ることができなかったことが分かりました。
以上、同修とシェアさせて頂きます。共に精進しましょう。