グループ学法に参加することについての考え
■ 印刷版
 

文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2024年5月2日】明慧編集部2023年7月1日付の記事「責任を負う」が発表された時、記事の内容については、佛学会のメンバーに向けたもので、自分とは特に関係がないと思いました。

 しかし、何度か読み返したら、次の一節に感銘を受けました。「例えば、それまで法のグループ学法に参加したとき、ほとんどの学習者は法を学び法を得て、心性を高めるという気持ちで臨んでいました。普段の暮らしの中でまたは職場でトラブルに遭ったとき、皆心性から原因を探し、法に基づいて求め、内を修めて外を安定させるようにしていました。しかし、法を正す修煉に入ってから、多くの地区ではトラブルと魔難が現れたとき、各種の人心、自我、場合によってもっと非常に良くない観念や言動が徐々に受け入れられるようになり、トラブルに遭ったとき、外に責任を押し付け、外に向けて求めており、修煉の観点から問題を考えていません。その結果、2000年以降に法を得た多くの新しい学習者はグループ学法と煉功点としてあるべき雰囲気と純粋さを知ることができなくなりました」

 長年来、昔のグループ学法の環境をすでに忘れて、今の修煉環境がいかに悪いかだけに目を向けている自分がいたことに気づきました。

 そして、先週の地元のグループ学法交流会で、私は下記のことを発言しました。「修煉を始めてから10年ほどの間、グループ学法に参加しないなんて考えたこともなかった。 しかし、だんだんと新しい顔が増えて、それが主流になってから、われわれのグループ交流は明慧ネットの記事を論評するように変わって、内に向けて探す内容が無くなった。みんなは口を閉ざすか、第三者の立場で明慧ネットの修煉体験文章を分析するかで、昔の心に響くような、深く感銘させられる修煉体験が聞こえなくなった。その結果、グループ学習に参加するのは時間の無駄だ、どんな収穫を得られるか、どれほど時間を使ってしまったかなどと計算するようになった。こうして、グループ学法に行かない言い訳が見つかりました」。最後に、今後、損得を計算せずに無条件にグループ学法に参加し続けたいと表明しました。

 しかし、翌朝、目覚めた瞬間、昨日言ったことは事実ではないと意識しました。本当のことは、新しい顔が多く増えるのは後のことで、その前に私はすでに同じプロジェクトで働く地元の同修たちと仲が悪くなり、グループ学法に行ったり行かなかったりするようになったのです。

 あれは2009年の時、いろいろな事があって私は修煉の難に陥りました。私がずっとやっているプロジェクトは間もなく交流会を開き、師父が出席されて説法されるかもしれないと知っていても、プロジェクト本部から何度か催促の電話があっても、例の同修たちと一緒にいたくないため、私は交流会に行かないことにしました。執着心がそれほど強かったのです。あれは2009年だったので、つまり、私は14年間も逃げてきました。

 それは地元のグループ学法にずっと参加したくない本当の理由です。つまり、地元の同修たちに会いたくないのです。

 地元の同修たちと仲が悪くなった時、私は内に向けて探すのではなく、かえって同修たちの不足に目を付けて、同修たちを見下していました。最も多くあったのは、「大法弟子はどうしてこうなのか、教養レベルの高い常人にも劣る」などと思ったり言ったりすることです。実は、もしそのような現象がなかったら、同修間との心性の関は存在しなくなるのではありませんか。同修たちの欠点を見下すのは、私こそ人心で物事を判断しているのではありませんか。

 数年後、私はその難関を乗り越えましたが、隔たりは深く心に存在して習慣となったため、もはや隔たりの存在自身にも気づかなくなりました。同修たちに下した批判、固定観念はずっと私の頭を左右しています。

 以前は、自分のプロジェクトで修煉することに満足していて、上記の隔たり、固定観念に触れようとせず、そのため、グループ学法で何が起ころうと自分には関係ないと思ってきました。

 以前は、1、大法がなければ私も存在しない、修煉は自分自身に責任を持ち、師父に責任を持つこと。2、プロジェクトは小さな修煉環境でもあり、私が衆生を救い済度するための舞台でもある。3、地元の全体学法の環境は複雑で、行くにも時間がかかって、重要ではない、考慮に入れなくてもいい、と考えていました。

 最近の明慧編集部の記事を見てはじめて、自分は修煉の基本的な要求から逸脱し、グループ学法は師父が大法弟子に残してくださった修煉形式であることをすっかり忘れていたことに気づきました。

 今はその理解が間違っていると分かりました。グループ学法の環境も私も大法の中の一つの粒子で、私は今この時に、同修たちが背負っている未来の宇宙とこの環境の中で融合し、共に大法に根ざすことになります。それは常人社会の「心を一つにする」や「団結」とは違います。

 地元の環境がなければ私も存在しません。修煉者が地元の修煉環境から逸脱して存在することができないことは、大法の修煉形式によって決められるものです。修煉者一人一人が大法の粒子なのです。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/5/464949.html)
 
関連文章