文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年5月11日】私は物心ついた時から大法を修煉している青年大法弟子です。 言葉を覚えたばかりの幼い頃から、学生時代、卒業後社会に出るまで、私は大法の法光を浴び続け、師父の慈悲のご加護のもとに今日まで歩んできました。
世の中で修煉している若者として、社会の悪しき習慣や風潮に影響せざるを得ないこともあり、私の一挙手一投足は伝統に反し、法にそぐわない要素があるかもしれません。また、自覚もないかもしれません。 しかし、やはり大法を修煉しているので、師父のご加護と導きがあります。私は流されることなく、むしろ徐々に自分の思考に潜んでいる変異的要素に気づき、努力してそれを修正していくことが大事だと悟りました。最近、大法の修煉で「伝統」についてのいくつかの理解を皆さんと共有したいと思います。これは、師父と大法の慈悲なる済度に感謝と敬意を表したいと思います。
師父は「洪吟五」や「洪吟六」で何度も「伝統」と「現代の考え方」について触れられており、明慧ネットでもしばしば同修たちが「伝統に戻る」「変異した現代の考え方を打ち破る」についての交流記事があります。そのため、私はこの点について反省し始め、自分は伝統文化が好きではあるものの、その事実をあまり理解していないことに気づきました。私は単なる浅はかな考えで、「善行を行い、徳を積み、福報をエル」ことが伝統だと考え、自分自身が伝統を重んじる人間だと思っていました。しかし、大法の中で、私は徐々に気づき始めました。伝統に戻ることは修煉者、特に現代の複雑な社会の中で修煉者にとって必須の道であり、私の心にはまだ多くの反伝統的な変異した考え方が存在しています。
ここ数日、私は「孝」について一部理解を得ました。古い言葉に「百善のうち親孝行を第一とする」とあります。現代の教育習慣では、知識と技能の育成をより重視する傾向にあり、「親孝行」が人間の基本として言及されたり、その意味を教えていないように思います。現在、一部の子供たちは親や年長者に対して失礼な態度をとり、親に対してときには冷たく接し、ひどい場合は口論するようになっています。一部の親は子供の問題を見て見ぬふりをして、子供の反抗心をさらに刺激することを恐れて、何も言えなくなってしまいます。
私自身、子供の頃、他人からは従順な子供と見られていました。しかし、年を重ねるにつれて、善良な性格は保ちつつも、年長者に対する尊敬を欠いた態度を身につけていったと感じます。中学生の頃には父親とたまに口論したり(一般に「抬扛(たいこう)」と呼ばれる)、父の短所を暴露し、父に服従しなかったりしました。大学に入学してからは、自分が多くを理解していると感じ、もはや子供ではないと思い、話す時にうんざりしやすく、腹を立てることもありました。私は女性なので、父親は私に対して厳しく叱責することはほとんどありませんでしたが、時折、父と娘の間で言葉の衝突がありました。しかし、それを真剣な問題として受け止めたことはありませんでした。時には父親が私に対して何か不満を持っていることを感じることもあり、私が親孝行でない、尊敬が足りないと感じ、父の世代とは違うと思うこともありました。
当時、法理への理解が浅く、修煉もあまり精進していなかったため、他人と接する時だけでなく、最も親しい人に対しても修煉者としての基準で自分自身に要求していませんでした。また、家庭環境も修煉者にとって心を修める環境であることを認識していませんでした。修煉者として執着心を捨て、より良い人になるべきなのに、なぜ私を育ててくれた両親に対して、人間として最も基本的な「孝」さえもできていないのでしょうか?
師父は弟子たちに「もちろん、われわれは常人の社会の中で修煉をしているので、親孝行をするのも、子供をしつけるのも当然です。どんな環境の中でも人には親切にしなければならず、まして自分の身内のものの場合はなおさらです。親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば、それはもはや私心ではなく、慈悲心によるもので、慈悲そのものです」(「轉法輪」)と教えてくださいました。
学法や他の同修の交流記事を読む中で、自分の問題に気づき始め、修煉の観点から父との関係に取り組むようになりました。話す時には言葉遣いに気を付け、父親が酒を飲む習慣については責めるのではなく、できるだけ助言の口調で彼の健康に注意するようにしました。他人を強制したり支配したりする心を取り除き、父親に子供が自分を大切に思い、親孝行してくれていることを感じられるようにしました。時には父の言うことに納得がいかなかったり、自分の観念にぶち当たったりすることがありますが、それが独り善がりで他人に負けない心から来るものだと理解しました。自分の反対意見を明確に示さないように自分をコントロールし、反対意見を出すにしても、口調を柔らかく話すようにしました。父親が時には私の職場での行動を批判したがることがあったとき(彼の職場は国有企業の雰囲気が強い)、私は割り込んで口を挟まず、彼が話し終わるのを待つように注意し、反対や弁解もせず、彼の立場から彼の意見や提案を理解しようとしました。
また、他人に言われたくない、プライドを守るといった執着を取り除くように心がけました。
自分の行動を修正し始めた最初の頃は、それが比較的難しいと感じましたが、それを修煉の過程で乗り越えるべき難関や取り除くべき執着として捉え、決意を固めることで徐々に改善されました。口から出そうとする言葉を抑えることができるようになり、自分に対し批判に対する反論の意欲も減り、家庭の雰囲気がより調和してきました。私は、「修は己にありて、功は師にあり」(「轉法輪」)と分かっています。心の底からこれらの変異物質を取り除きたく、行動上で可能な限り実践しようとしたので、師父がそれを取り除くのを助けてくださったのです。
また、自分が非常に深く隠していた変異の考え方に気づかされることがありました。父親は家事をほとんどせず、家事は基本的に母親が行っています。私も時々手伝います。私たちが家の片付けを必死でして、とても疲れているのに、父親はベッドでスマートフォンをいじっています。それを見ると、心の中でアンバランス、不公平に感じ、私たちが疲れ果てているのに、手伝わないのかと思いました。しかし、ある日突然、「古代の人々は自分の両親に家事をさせたいのか? 父親が家事をしないときにぷりぷりと腹を立てて、不満でしがたがないのか?」と考えました。親孝行で有名な舜や「臥冰求鯉(氷にふして鯉を求める)」の王祥を思い出すと、自分の行動が古代の人々にとっては常識はずれだということが分かります。これらはすべて伝統に反する変異的な考え方であることを示しています。
さらに掘り下げると、心の中にアンバランスを感じる理由は、現実を顧みず、他者と比べる心、怨恨心や嫉妬心の感情を抱いていることを示しています。また、長い間自分を両親と同等の立場に置いてきたことを表しており、家庭内で家事を同等に分担すべきだと考えてしまうことが原因になっています。実際、親は親であり、親は年長者として尊敬されるべきなのです。子供は子供であり、幼少期には親に養われ、成年後はその養育の恩を返すべきです。家庭内で体力的な仕事を積極的に行うのは当然のことです。
同時に、私は潜在意識の中で両親を自分の私有財産のように考え、彼らは私に親切でなければならないと感じています。彼らが私に優しくないと、それは彼らが悪いということであり、自分が娘として両親にどれだけ親孝行したかはほとんど考えたことがありませんでした。また、中には弱いものいじめや分別心(差別心)、他人に言う勇気がないことや、遠慮して言えないことが、両親の前ではそれらを口に出すことができ、非難や不満の言葉を口にすることができます。彼らは私の両親だから、例え彼らを「いじめても」何の問題もないと感じています。
これらの考えは明確に表現されていませんが、潜在意識の中で存在し、隠れています。もし大法で修煉しなければ、修煉者の基準で自分を見つめなければ、これらの考えに気づくのは本当に難しいでしょう。私はそのように悟りました。修煉者は知らない人に対しても善を行うべきであり、自分の家族に対してはなおさら寛容であり、愛情を持つべきで、これは彼らへの恩返しだけでなく、私たちが持つべき慈悲なのです」
「親孝行」以外に、生活習慣の面から伝統に戻ることについてもいくつかの気づきがあります。古人は言いました。「日の出に働き、日没に休む」、天の時刻に合った生活リズムは人々が従うべき法則であり、乱れた生活リズムは身体と精神にとって有害です。私は早寝早起きも実践すべきで、大学時代に身につけた夜更かしの習慣を克服する努力をすべきだと考えています。何よりも、修煉者としては朝早く起きて煉功することが重要です。夜更かしをすると起きられなくなり、修煉が遅れる可能性があります。特にスマートフォンやゲームで夜更かしするのはより避けるべきです。それは目に害を与えるだけでなく、翌日には顔色が悪くなり、元気がなくなり、心には多くの雑念が沸き立ちます。これは伝統に反する変異行動であり、是正すべきです。
その他に、日常のふるまいにも一定の規範があるべきであり、多くのお年寄りが言っているような「体型が崩れた」というような人になってはいけません。心が正しく、澄んだ目で上品な態度でふるまい、健康な体を保ことは、伝統文化における人間に対する規範であり、正常な状態に正すのです。私はこの点、あまりうまくできていません。腰掛けて片方の足を一方の足の上におく姿勢が多く、姿勢を正しくするのが苦手です。これも今後注意すべきことだと思います。
修煉の中で、物を大事にし、食べ物を大切にし、衣食住にこだわらず、無駄遣いをしないことは、伝統文化で唱えられている美徳であるだけでなく、心性が高い一つの表れでもあると悟りました。もし実践できれば、その人の利己的、安逸さ、怠惰さ、色欲、利益、見せびらかすことなどへの執着心がかなり弱まる可能性があります。
師父は私たちに教えてくださいます。「伝統の道に戻れば、天に通じる」(『洪吟五』の「再び造る」)。伝統的な美徳の多くが人々の行動規範であるだけでなく、修煉者にとっても大きな参考意議を持つことになることに気づきました。勤勉は安逸心を取り除き、地道さは浮ついた心を取り除き、倹約は虚栄心を取り除き、謙虚は闘争心や自己実証欲を取り除くことができます。伝統文化に合わない習慣には、執着心や変異の要因が裏打ちされています。
世の中で修煉する者として、私の考えにはまだ多くの変異した観念の影があることを知っています。いくつかはあまりにも不明瞭で、今でも気づくのが難しいものさえあります。しかし、幸いなことに、佛法があり、大法があり師父がおられるので、私は必ず修煉の中で自己を正し、真の伝統に戻り、師に随って、円満成就します。
(責任編集:于悦)