3回の投獄を切り抜けた
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文/中国東北の大法弟子 藍天  

 【明慧日本2024年9月11日】1999年7月20日以降、中共は法輪功に対する狂気じみた迫害を続け、私たちの地域でも、ほぼ毎日、大法弟子が迫害されています。まさに黒雲が城を覆い、城が崩れそうな状況でした。

 (一)一回目の経緯

 2004年4月、地元の協調人が次々と連行されました。当時、私は本地域の法輪功迫害の実態(真相)資料と『明慧週刊』の新聞配布を担当しており、同修から一時的に身を隠すように勧められました。しかし、私は「もし私がいなくなったら、誰が資料や新聞を届けるのか? 同修たちはどうやって資料を配布し、交流をするのか?」と考え、心を動かさずに自分のすべきことを続けました。しかし、私は当時、すでに私服警官に尾行されていることを知りませんでした。以前、電話を盗聴されている同修と連絡を取ったため、私の電話も盗聴されていました。そして、同修の家から出た直後、警察に連行され、留置場に送られ、7年の不当な刑を宣告されました。

 留置場での日々、私は毎日「ここは私がいるべき場所ではないし、ましてや刑務所には行かない」と考えていました。10月、警察は私を大北刑務所に送ろうとしました。車の中で、私はずっと「大北刑務所には行かない、私は自分の使命がある」と念じていました。刑務所で身体検査を受けた際、奇跡が起こりました。血圧が170まで上がり、心筋の深刻な虚血が確認されました。医師が突然、「家族に感染症の人はいますか?」と尋ねたので、私は「母は肝臓の腹水が溜まり亡くなり、兄は現在、肝硬変です」と答えました。医師はそれを聞くと、書類に「拒収」と書きました。留置場の警察はすぐに上司に電話をかけ、「刑務所が収容を拒否しました」と伝えました。上司は「他の病院で再検査して、収容できるかどうか確認しろ」と指示しましたが、別の責任者が「刑務所がすでに拒否したのだから、他の病院で検査しても収容できるわけがない」と言いました。仕方なく、再び留置場に戻されました。

 1カ月後、「刑の執行停止」として釈放され、家に戻ることができました。

 (二)二回目の経緯

 2014年4月15日、この日、地元の裁判所から4人が何の理由もなく私の家にやって来て、私に3年の刑を言い渡しました。当時、私は体調が悪く、ちょうどベッドで休んでいました。夫(同修)も体調が悪く、ソファに座っていました。彼らは部屋に入ると何も言わずに一枚の紙を置いて去っていきました。私はそれを見て「判決書」だとわかりました。私と夫は同時に懲役3年の不当な刑を宣告されたのです。なんという滑稽で荒唐無稽なことか。何の説明もなく、ただ私と夫が法輪大法を修煉し、善良な人間になろうとしただけで、無理やり懲役3年もの刑を言い渡されたのです。しかし、師父のご加護のおかげで、私たちは刑務所に行くこともなく、誰も私たちに関与しませんでした。こうして何事もなく3年が過ぎました。

 (三)三回目の経緯

 2021年5月のある日、私はPCR検査所に行って検査を受けました。当時、中共は全員が検査を受けるように強制しており、受けなければ誰それに不利益があると言いました。私がPCR検査を終えた直後、私服警官が私に「あなたは〇〇〇ですか?」と聞かれました。私は「そうです」と答えました。私服警官は「私と一緒に派出所に行きましょう」と言いました。その時、私は不審に思い、「派出所に行って何をするのですか?」と尋ねました。私服警官は「ちょっとした用事です」と答えました。派出所に到着すると、所長が「B区の公安局がお前を探している」と言いました。この言葉を聞いて、私は少し不安になりました。B区の公安局は、以前から法輪功学習者への迫害が激しかったからです。しかし、すぐにこの恐れを否定し、「これは良いことだ。試練が来たのだ」と心を落ち着かせました。

 この間、私は4人に脱党を勧めました。夜8時以降、B区の国保大隊長(法輪功迫害の実行機関)が派出所にやって来て、私を隣市の留置場に送ろうとしました。しかし、パンデミック期間中であったため、体温の測定が最も重要視されていました。国保大隊長は仕方なく、私を大きな病院に連れて行き、全身の検査を行いました。結果は血圧がやや高い以外はすべて正常でした。

 その後、私は隣りの市の留置場に連れて行かれましたが、入所前に再び体温を測ると、37.4度を示し、連続で3回測っても37.4度でした。留置場の担当者は「体温が高すぎて受け入れはできない」と言いました。国保大隊長は「車の中で暑かったから、少し涼めば良くなる」と言いましたが、私は協力する気はなく、「ここでは座りません」と言って立ち上がり、その場を離れようとしました。結局、国保大隊長は私を別の派出所に連れて行き、鉄の檻に閉じ込めました。入り口には2人が見張っていました。この時点で、すでに夜の12時半頃でした。私はぼんやりと少しうたた寝し、やがて朝が来ました。

 前日の陰謀は失敗しましたが、悪人らは諦めず、再び私を留置場に送ろうと、大病院に連れて行き、再度全身検査を行いました。結果はすべて正常でした。この時、女性警官が「留置場の体温計が壊れていたのだ、こちらでの検査結果は正常だ」と言いました。留置場に向かう途中、天も怒ったかのように激しい雨が降り、車の屋根に大きな音を立てて叩きつけました。フロントガラスのワイパーは最大速度で動いていましたが、路面はほとんど見えませんでした。留置場の門前に到着すると、内部の人々が「私たちは受け入れできません」と言いました。仕方なく、国保大隊長は私を国保大隊に連れ戻し、他のいくつかの部門と結託して「半年間居住監視」の書類を作成し、私を家に送還しました。

 「半年間居住監視」と言われても、私は何の概念も持っておらず、普段通りに自分のやるべきことを続け、このことはすぐに忘れてしまいました。それから2年が経ちましたが、師父の細やかな見守りのおかげで、私は師父が定めた修煉の道を順調に歩んでいます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/8/21/481033.html)
 
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