文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月1日】ある同修が私に「同修の誰々さんは、これまで十何年も迫害に遭っていません。私は迫害され、彼女は私よりも優れた修煉者だと思います」と言いました。師父は、このような理論について語られたことがあるでしょうか? 迫害された者は迫害されていない者に劣るというのでしょうか? 『轉法輪』では「あなたの理解や考えに基づいて伝えるものは、法ではなく、人を済度することができず、何の効果もありません」と説かれています。
大法修煉者として、考え方は大法に由来すべきで、自分の好みや個人的な感情、人間の推理で語ることはできません。たとえどの師父の説法かを示さなかったとしても、心の中で、自分は師父の説法からそう悟っているのだということを自覚しなければなりません。そうして発した言葉は、大法の力を持つことになると同修も私の言葉に同意してくれました。
何年も前、ある同修は自分の息子が正しいことをしたので、「そのため、彼の仕事は順調で、多くのお金を稼いでいます」と言いました。私は「息子さんが今より多く稼いでいるという事は、息子さんが当時正しいことをしていたという証明には使えないのです。あなたの物事の判断基準は間違っています。物事の是非の判断基準は大法です。師父は法で私たちに何をすべきかをおっしゃいました。息子さんは明らかに師父の要求の原則に反しています」と言いました。話を聞いた同修は、内心に響いたとを感じました。
私が接した同修の中で、法の内容や師父の言葉を考えている人はほとんどいません。嫉妬や恨みなどを人心の支配下におき、皆と同じことをします。
少し前、ある事が私に恐怖心を引き起こし、恐怖心の影響で頭も混乱し、心がとても苦しくなりました。そのあと、師父は法の中で何と言われたのかと考えました。
師父は「大法弟子として、なぜ迫害を受けているときに、邪悪の徒を恐れるのでしょうか?」(『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」)と説かれました。
そうです、私は大法弟子だ。彼らを恐れる必要はないと考えると、法の力がその恐怖を一気に抑え込み、その瞬間に「怖くない」と感じました。その後、同修が私に正念を与え、マイナス思考を否定してくれたため、話している間に恐怖心がなくなり、体が軽くなりました。師父の見守りと同修の真心に感謝しています。
数年前、ある同修が私にとても失礼な態度をとったことがありました。何も言えないのですが、お腹が痛くなるほど腹が立ちました。それから私は毎日彼女に対する悪い考えを否定しましたが、どうしても取り除くことができず、抑えることができず、とてもイライラし、ずっと悩んでいました。ある日、私は考えました。もし問題が起きたら、師父は私たちにどのように対処するよう求めておられるでしょうか? 『轉法輪』の第四講では「そんなことをすれば善のかけらもなくなります」を思い出したとき、私は衝撃を受けました。真・善・忍を修めても、善がなければ私はどうなってしまうでしょうか? この恐怖で、師父は悪い思想を一気に消して下さったのです。それ以来、思想の中に彼女が良いとか悪いという考えはなくなりました。どんなに頑張っても消えなかった思いが法の力で、一瞬で消えました!
この文章を書く過程で、私が初めて法を得た時のことを思い出しました。私は1997年に法を得ました。法を得た後、職場から2年の休暇が与えられました。子供は2歳になりました。夫の仕事は、ただ足を組んでお茶を飲んでいればいいという高給取りの仕事です。 夜私が学法をしに行くときは、夫が子供の面倒を見なければならないので、機嫌が悪くなり、行かせてくれないのです。私はいつも、夜の散歩に子供を連れていく人はみんなペアで、彼は1人で、あるいは昼間は仕事で、夜子供の面倒を見るのは疲れることが理由だと思っていました。師父は「なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです。これは間違いないところです」(『轉法輪』)と説かれていますが、自分の正念は非常に弱く、夫の理由が非常に強いのです。
振り返ってみると、もし如何なる人間のものも加えなければ、慈悲心が生まれ、状況が思いがけず変わるかもしれず、少なくとも長期間、困難の中にいることはなかったと思います。心中でその隙間を与え続けたことで、キリなく困難が現れて来るのです。思想が人に降りかかると、苦難に陥ります。思想が人を超えたときのみ、最も自由になれるのです。
現在、地元では何人かの同修が連行されています。同修を救出するにあたって、この点は顕著でした。例えば、「非常に多くのものを押収された」と言う場合、この 「非常に多く」は、裏で厳しく迫害されるという意味があります。「彼女の家からはあまり押収されず、数冊の資料だけだったので、大きな問題はないでしょう」というのは、押収されたものの数によって、判断されたのではないでしょうか? 口では迫害を否定するようなことも言っていますが、しかしそれは不純な念であり、不正なものが混じっています。例えば、ある同修が尋問を受けていたとき、誰が自分に資料を与えたのかを質問され、それを知る人は誰もがため息をつき、誰々だと他人に指摘され、悪を根絶する希望は完全になくなったかのようになります。「私は旧勢力の全ての按排と現在の迫害を認めていません」(『二〇〇三年元宵節での説法』)という師父の法を思えば、押収されたものの数や、誰が証言したなどを、なぜ気にするのでしょうか? 師父は、物が多く押収された者や他人を裏切った者は厳しく迫害されると、言われたことはありません。では、このような考えはどこから得ているのでしょうか? 人間の思考形態なのか? 旧勢力が押し付けた考えなのか? 変異した悪い論理なのでしょうか?
病業を持つ同修と接する場合にも、同じことが当てはまります。その周りの同修は、関連する法を一緒に学び、大法の法理を高いレベルから、真に理解することをお勧めします。
結論
問題に遭遇する際、どうしようもなく他人に話したいとき、落ち着いて一緒に、法でどうしたらいいのかを考えれば、共に向上できるのではないかと思いました。相手に対し、二人とも不満を持っている場合、あなたが文句を言い、私がもっとひどく言うと、それは本当に最悪です。同修を救う場合、病業を抱えた同修に対し、または何か噂を耳にしたとき、法はどういうふうに教えられているのか、また関連する師父の説法を一緒に探したりするのであれば、我々の修煉場はますます正しくなり、人心、その意念、そして感情が徐々に役割を果たすことができなくなります。
師父は「弟子たちよ! 皆さんは勝手に何らかの言葉を持ってきて、それを皆で用い、皆で語ってはなりません。これこそ、大法の中に人間のものを加えていることではないのですか?」、「わたしが修煉の中で話したように、皆さんも話してください」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)と説かれています。もし人間の観念を放棄し、思想が法に基づけば、そのとき私たちは本当に大法に同化し、法に溶け込むことができると思います。
少し浅いレベルの認識ですが、不足がある場合は指摘してください。