文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月2日】
歓喜心と顕示心を取り除く悟り
ある同修は法を実証するためのことを行い、周りの同修たちはその行いが素晴らしいと感じ、自分にはできないことだと思いました。この同修は、「師父がこんなに素晴らしい仕事と修煉の環境を与えてくださったのだから、私には多くの衆生を救うべきだと思います。しかし、私は師父の期待からあまりにも遠く離れている」と言いました。
この話を聞いて、私は少し悟りました。この同修は歓喜心と顕示心を生ぜず、むしろ今世において師父から与えられたものがもっと多く、自分が成し遂げたことはほんのわずかであり、実際には一世一世にわたって師父が私たちに与えてくださったものは計り知れず、私たちが多くの衆生を救えるように、様々な資源を与えてくださるのです。
もし、この法を本当に理解できれば、私たちが法の実証と衆生の救い済度にどんな行いをしても、それは師父が私たちに与えてくださったものや、私たちに対する期待に比べれば、決して十分ではないことを自覚できるでしょう。恥ずかしさを感じる余裕もなく、どこに歓喜心と顕示心が生まれるのでしょうか?
「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」を暗記して得た成果
先日、法輪功の主要な書籍である『轉法輪』の第三講「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」の段落を暗記し、その冒頭で師父は「自分と他人を済度し」とお話しされていて、自分をしっかりと修めることで人を救えることだと悟りました。
ちょうどこの数日間、グループの同修たちは、いくつかの似たような出来事に遭遇しました。家庭内の他の修煉者の正しくない状態を見て、以前のように相手を非難したり、心配したりするのではなく、心を落ち着けて自分を修めた結果、相手の行動が非常に良くなり、家族の他の修煉者も「他人の問題を見て自分を修める」という考え方を受け入れました。
さらに考えたのは、もし周りの修煉者が私に魔難を与えたり、周囲の常人が自分にトラブルを引き起こした場合、法理的には相手を鏡として、自分を見つめ直すべきだと理解しています。しかし以前は、自分に何の問題も見出せず、相手が多くの混乱を引き起こしているように思えてしまい、心に不満が生じることがありました。その法を暗記した後、問題を考える角度が変わりました。もし自分が本当に良く修めているなら、周囲の環境は整い、相手の行動も今のようではないはずです。つまり、相手の行動が良くないのは、自分がまだ十分に修めていないからだと思います。相手を恨むよりも、自分がまだ修めるに至っていないことを恨むべきです。そうすれば、もはや不満は生まれません。
少しでも悟り、不適切な部分があれば、同修の皆様、どうかご指摘ください。