文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月6日】私は個人的な観念が邪魔をして、長い間グループの学法に参加していませんでした。今回初めて参加し、大きな感動を覚えたため、同修と交流したいと思い、文章にしました。
このグループは年配の同修ばかりで、若いのは私だけでした。法を学ぶ前に、真相資料を折っているとき、ある人は雑談を、ある人は修煉体験について話していました。
あるとき、年配の同修が、最近物忘れが多く、物事に対する反応が鈍くなっていると、自分の娘に話しました。すると、娘さんは、「もう年を取ったから、そうなるのでは?」と言ったそうです。同修は当時「私は修煉者であり、修煉すればするほど若くなるはずです」とこう言いました。会話には無力感とため息が満ちていました。また別の年配の同修は、「私のプレーヤーは壊れそうです」と言い、さらに、「このことを李さんに話したら、私のプレーヤーはとっくに壊れるはずで、彼女のプレーヤーはもうずっと前に壊れたと言った」と付け加えました。すると近くにいた別の同修もすぐに同調し、「もう13年も経つので、壊れる時期が来たんだよ」と言いました。私はその時、みんなにその言い方、考え方は良くないと言いたかったのですが、その言葉をすぐに飲み込みました。なぜなら、法を暗記し口述することを繰り返してきた中で、これは一、二文では解決できない修煉の問題であるとわかっていたからです。
私は、なぜこの場面に遭遇したのだろうかと考えました。その後のグループ学法の中で、私はその事の原因を理解しました。
その時、私たちは『轉法輪』を学んでいましたが、私は突然、男女関係の関がなぜいつまでも乗り越えられずにいるのか、それは二股をかけているのと同じではないかと思いました! 色んな苦労をして今日まで歩み、誰もが罠だとわかっている小さな川の溝の前で、なぜこんなに愚かなのか? それは、あの年配の同修のように、自分は師父の管理下にある特別な存在であり、修煉によって人生の進展を変えることができるということを忘れているからです。師父は私たちが成、住、壊、滅の規則の束縛から、抜け出すことを望んでおられますが、私たちはどうしても旧道を歩もうとしており、年配の人は「人間は年を取る」と考え、若い人は「男女の情に妨げられるのは普通のことだ」と考えています。
よくみる一般的な状況がもう一つあります。迫害が始まった当初、外部環境は比較的厳しく、真実を伝える際に多くの危険な状況に遭遇するため、同修はより集中し法を学ぶことに一層の注意を払いました。環境が良くなるにつれ、真実を明らかにし、人々を救うためにより多くの活動が行われるようになりましたが、学法しても脳に留まらず、徐々に形式的になってきました。このようにして、現在の家族の関、同修の関を越えることができず、病業の虚像につながりました。そして、これらの同修は依然として、自分が三つのことを行い、多くの人を救っていると思い込み、どうして病業の虚像が現れるのか? それが悟れず、不思議に思えば思うほど、病業がより深刻になります。実は集中して学法することを怠り、発正念をしても力がなく、そのため、関を乗り越えることができず、時間が経つと、さらに師父と法への信頼に影響を及ぼし、より関の乗り越えが難しくなります。
師父は『衆生が無明(むみょう)の苦しい世で人間性の善にたよって乗り越えるようにするためでもあります。難しいのですが、成、住、壊、滅の最後に、滅されるはずの生命は苦を舐め業を滅する中で乗り越えるしかなく、同時に、善良な本性を守りぬいてはじめて「未来」に認められるのです』と説かれました。(『人類はなぜ迷いの社会なのか』)
この法の一節から私は、成、住、壊、滅の法則の中に、いかなる生命も、年齢も関係なく、未来はないことに気づきました。これによって、思い出したことがあります。昨年の旧正月、娘は9日間も私に手を出したり、叱ったりして、「地獄に落ちろ」と罵りました。表面的な理由は、家が貧しくて、彼女の顔に泥を塗ったことでした。年が明けてからは、自分には男女関係の関がありました。その過程で、良くない考えを抱くたびに下腹部が歩くごとに痛かったのです。さらにあるとき、追求者(お互いの関係をまだ明白にせず、自分のことを好きな人を指す)とすれ違ったとき、お互い抱き合う光景を妄想したこともありました。そのとき「恥知らず」という三文字が脳裏に浮かび、それを全身で感じました。これは、成、住、壊、滅の道を歩むことの恐怖と厳粛さです。
現在のこの時期、多くの年配の大法弟子はさまざまな理由で人身を失い、病業で人を救うことができなくなっています。我々は長年にわたり、人を救う修行の中で、成長しましたが、前より人がはるかに減りました。1人が減れば、救える天上界の無数の衆生も減ります。したがって、普段から法に符合しない考えを否定して自分の肉身を保護し、大法に同化させることで、無数の衆生が未来を持つことができるようになります。
本当の向上は、心を落ち着かせて学法をし、法の暗記と写し、真に修煉することによってのみ達成できます。
すこしばかりの個人的な考えで、抛磚引玉(良いものを引き出すために、つまらないものを差し出す)を旨としていますが、法に沿わない場合は、慈悲なる指摘をお願いします。