文/黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2024年12月8日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は今年63歳で、1997年から法輪大法の修煉を始めた古い弟子です。一緒に人を救う活動をしている同修たちは、みな私より若いのですが、私は決して年をとったと感じたことはありません。年齢の壁を感じたこともありません。春夏秋冬、どんな天候でも、私はいつも同修たちと一緒に正念正行し、衆生を救い済度してきました。
一、秋冬に村々を回って家を一軒一軒訪ね資料を配る
昨年の秋、私は同修と協力して、近くの村へ真相資料を配りに行きました。距離が遠かったので、電気自動車のバッテリーが途中で切れるのが心配で、2人とも自転車で行きました。私が住んでいる場所は二つの省の境目に位置しており、約20キロほど行くと隣の省に入ることができます。その日、私たちは隣の省の村へ資料を配りに行ったのですが、ちょうど暴風の日にあたってしまい、歩くのもやっとの状況でした。道路を走る大型トラックが私たちの前を通過するたびに、砂埃が舞い上がり、目が開けられませんでした。
省をまたぐ橋を通る時、上り坂は自転車を押して歩く必要があり、下り坂も同様に自転車を押して歩く必要がありました。傾斜が急すぎて、ブレーキをかけても危険だと感じたからです。やっと隣の省の標識が見えてきて、私たちはすぐに疲れを感じなくなりました。少し相談して、前方の村から資料を配ることにしました。村の北側に行くと、同修が「私が南側から北へ、あなたが北側から南へ資料を配り、村の中央で合流しましょう」と言いました。同修は私のことを心配して、少しだけでも私が自転車に乗る距離を短くしようとしてくれているのが分かりました。私たちは計画通り、一本一本の路地を通り抜け、一軒一軒の家の門に真相パンフレットを挟んでいきました。
村の中央で同修と合流しました。同修は「こんな風に資料を挟むのは良くないわ。風が吹いたらすぐに落ちて、どこに飛んでいくか分からないわよ」と言いました。大きな鉄門の2本の鉄棒の間隔が広いところがあって、挟みきれずに庭に落としてしまうことがありました。同修は「こうやって資料を折り返して、門の上の丸い飾りの輪っかにはさめば落ちないわよ」と教えてくれました。そして「これは師父の法と、貴重な真相資料なのだから、乱雑に扱ってはいけないわ」と言いました。私はすぐに自分の行動を改め、一軒一軒丁寧に資料を挟んでいきました。
その時はまさに秋という季節で、農民たちは皆、1年分の食糧を家へと運ぶのに忙しくしていました。トウモロコシを運ぶ人、稲を運ぶ人、大豆を収穫する人など、皆の顔には豊作の喜びが満ち溢れていました。私たちは農民たちに真相を伝え、中国共産党(以下、ち中共)とその関連組織からの脱退を呼びかけました。素朴な農民たちは皆、喜んで受け入れてくれ、彼らの顔にもまた喜びがあふれていました。
隣の省の村から出て帰路につきました。途中の村で資料を配り始めたところ、200枚以上の真相資料をすぐに配り終えました。まだ配りきれていない村もあったので、同修は「まだ配布できていない場所は覚えておいて、また後で来ましょう」と言いました。私たちは無事に家に帰ることができました。
翌日、同修と私は西側の村へ出かけました。3日目には南側の村へ、そして4日目には北側の村へ行く計画を立て、周辺の村を全て回ることにしました。同修とは、お互いの家で待ち合わせをするのではなく、一つは安全面、そしてもう一つは建物の階段を上ったり下りたりするのが面倒だからでした。そこで、毎日別れた後に翌日のルートを決め、待ち合わせ場所を決めて一緒に出発することにしました。
しかし、約束の時間になったのに、同修の姿が見えなかったので、私は引き返しました。すると遠くから同修が歩いてくるのが見えました。「自転車が壊れてしまって修理中なのです。明日また行きましょう」と同修は言いました。引き返す途中で、私はもう全て準備万端なのに、最後の一歩を踏み出せないことに少しがっかりしました。そこで、私は家に帰るのをやめ、別の選択肢を選び、以前資料を配り切れなかった村へ向かうことにしました。村人たちが一日でも早く真相を知り、救われることを願いました。その日は、100枚以上の資料を無事に配り終え、私はとても喜んで家に帰りました。
5日目、同修と待ち合わせ場所で会いました。同修の表情が少し曇っており「誰かに尾行されているみたいです」と言いました。少し躊躇しているようだったので「だったら、一旦帰ってゆっくり休んだ方がいいんじゃない?」と勧めてみました。彼女はとてもしっかりした同修でしたが、以前迫害を受けて6カ月以上も家を離れて暮らしていたため、心の奥底に迫害の影を抱えているようでした。しかし、長い間悩んだ末に、活動を続けることを決めました。
二つの村で資料を配り終えた後、同修はまた帰りたがりました。「資料を全部私に渡して、あなたは先に帰っていいですよ。あとはこの前の村だけだから、すぐに終わります」と私は言いました。同修は残りの資料を全て私に渡し、帰り始めたところ、私たちが立っていた稲穂の間から数羽のカササギが飛び立ちました。カササギは一般的に縁起の良い鳥とされています。その瞬間、私は師父が自分のそばにいらっしゃることを本当に感じました。しかも、このような感覚は今だけのものではなく、ずっと前から感じていました。
ある年の真夏の正午、外から帰ってきてとても疲れてしまい、眠くて仕方がありませんでした。しかし、正午の発正念の時間を逃してしまうのではないかと思い、弟子を起こしてくださるよう師父にお願いしました。ぐっすり眠っていたところ、隣の家の電動自転車のクラクションが突然鳴り響き、目を覚ましました。ちょうど発正念の時間でした。師父が私に気づかせてくださったのだと思いました。
また、ある冬の夜のことですが、私は師父に「弟子は数日間、夜起きて正念を発していません。師父に起こしていただきたいです」とお願いしました。すると、熟睡していたところ、窓の外から氷が落ちてくるような音が聞こえて、地震が起きたのかと思いました。目を覚ましてみると、ちょうど発正念の時間でした。やはり師父が私を起こしてくださったのでした。
ここまで話すと、私は同修に「まだ進みますか?」と尋ねました。同修はすぐに悟り、師父が彼女に何かを気づかせてくださったのだと理解しました。「行きましょう」と同修は言いました。同修はすぐに正念を取り戻し、私たちは残りの真相資料をスムーズに配り終えました。残念なことに、資料が足りなくなり、20軒ほどの家に届けることができませんでした。しかしその後、寒くなった頃に別の同修とタクシーでその場所に戻り、資料を届けられなかった家をすべて回りました。
あっという間に冬がやってきました。雨が雪に変わり、人々は雪道を歩く時にうっかり滑って転んでしまうことが多く、毎年、転倒で怪我をする人が少なくありませんでした。この季節になると、外出する人がぐっと減ります。私たちは大法弟子ですから、外に出ないわけにはいきません。多くの衆生が私たちの救い済度を待っているのです。自転車に乗ることはできなくなったので、遠くへ行くときはタクシーに乗り、帰りのタクシーがあるかどうかは気にしませんでした。同修たちは以前もこのような方法で出かけており、帰る時には必ず誰かの自家用車に乗せてもらえ、時には自宅まで送ってもらえたと言っていました。この冬は私たち4人が協力して活動することが多く、2人一組になり、村々を一つずつ訪ね、その後、タクシーを降りた地点で合流しました。
うまくいかない時もありました。ある時、比較的大きな村で同修とはぐれてしまいました。私たちは別の組の同修が配った資料を見つけたのですが、人影は見当たりませんでした。しばらく探しましたが見つからず、仕方なく来た道をたどってタクシーに乗ろうとしました。歩きながら何度も後ろを振り返り、同修が現れるのを期待しました。ちょうどその時、私たちの住む方向へ向かうバスが通り過ぎました。私たちはそのバスに乗りませんでした。なぜなら、バスの中には同修の姿が見えなかったことと、まだ20枚以上の資料が残っていたからでした。少し先に小さな村が見えました。来る時はタクシーだったので、それほど遠く感じませんでしたが、帰る時は一歩一歩歩いたので、村がとても遠く感じられました。
その村に到着したのは、もうお昼時近くになっていました。お昼時になると少し暖かくなり、村の中を歩く人々の姿が見えました。私は真相資料を中年男性に手渡すと、彼は資料を受け取ってひと目見た後「いらないよ。前に街で誰かに同じようなものを貰ったことがあるんだ。役人に会ってしまって、どこでこの資料をもらったのかってずいぶんと尋ねられたんだよ」と言いました。
ちょうどその時、向かい側から、かつて軍隊に所属し訓練を受けてきたかのような若くて精悍な男性が歩いてきました。私はその若者を村の役人と勘違いしました。その若者は自ら資料を1枚求め「なんだって? もし誰かに聞かれたら、拾ったって言えばいいさ」と言い、資料を持って小さな商店に入っていきました。私はその若者に真相を伝える暇がありませんでしたが、その若者はすでに自分自身の未来を素晴らしいものにするための選択をしていました。
20枚以上の資料はすぐに配り終えました。私たちは20キロ以上を歩いて、やっと家に着きました。家に着くと同時に、他の2人の同修も帰って来ました。同修たちは道中で私たちが配った資料を見かけ、道標のように道順が分かり、そのままタクシーを捕まえて家に帰ってきました。
特筆すべきことは、私たちが毎回資料を配り終えると、必ず通りすがりの車と出会うということです。中には料金を請求してくる車もあれば、無料で乗せてくれる車もありました。しかし、私たちは毎回お金を払いました。極寒の雪の中、誰もが大変な思いをしているからです。大法弟子として、他人の親切に甘えるわけにはいきません。
(続く)