文/ヨーロッパの大法弟子
【明慧網2025年3月2日】(前文から続く)痛みと闘う最初の2週間で、嫉妬心、不満、自己保身、安逸を求める心、善とは言い難い心など、多くの漏れを見つけました。徐々に体の水疱は引いていきましたが、痛みはまだ続いていました。
2週間ほど経ったある日、1時間の抱輪(第二式功法)の後、正念を発しました。手を立てたその刹那、頭の中に力強い声が響きました。「本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」(『精進要旨』「道法」)
体が震え、大蓮華手印を結びました。手から巨大なエネルギーが噴出し、天に向かって飛び上がっていくのを感じました。
このエネルギーは正月の花火のように、非常に高い場所まで噴き上がったあと、無数の爆雷となって四散し、暗闇の中の邪悪を吹き飛ばしました。
体が固定されているかのように感じる一方、頭の中には「悪を徹底的に除去する」という一念だけが残りました。
師父が私の本性の一面を呼び覚ましてくださったのだと感じ、その瞬間、呼び覚まされたその一面が私の肉体を司りました。大蓮華手印を結び続けると、エネルギーが手から絶え間なく噴出し、体はとても心地よく感じました。正念を発し終えて時計を見ると、1時間近くが経っていました。
正念を発した時に頭の中で響いた声を思い出しました。「本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」(『精進要旨』「道法」)。これは師父が私に「道法」を学ぶよう促しているのだと悟りました。そこで、すぐに「道法」を見つけ、一言一句に注意を払いながら、何度も繰り返し読みました。
そして、「道法」の中の「魔難が尽きることなく長引くのであれば」という言葉で、私の思考の誤りに気づきました。
私は、体に病業が現れ始めてからというもの、ずっとこれが自身の業力によるものだと考えていたのです。この病業は単純に業を消すためだけのことで、耐えきることさえできれば、いつかは乗り越えられると思っていたのです。
しかし師父は、邪悪な魔は果てしなく妨害する、と私たちに注意を促していらっしゃいます。妨害に遭った時、単に忍耐するだけでは乗り越えられないことを理解しました。魔難が来た時、私は平然としていられたでしょうか? ほとんどの場合、そうではありませんでした。異なる次元で私の心性にどのような要求があるかを考えたでしょうか? それもありませんでした。
師父はこうもおっしゃいました。「魔難と迫害の中でその一念が非常に大事になります。しっかり行ったかどうか、迫害されたかどうか、正しく行ったかどうか、どこまで迫害されたのかはいずれもあなた自身が歩んだ道、頭の中で考えたことと直接関係あります」(『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」)
私は自分のひとつひとつの思考や一念が法に則っているのかどうかを確認し、自分を正し続けています。これは非常に真剣に取り組むべき事ですが、時々私は、「心の中で不快な思いがなくなれば、それは執着を放下し関門を通過することができた証拠だ」と安易に結論づけてしまうことがあります。
結局のところ、これは修煉に心を込めているかどうか、あるいは修煉に真剣に取り組んでいるかどうかという問題です。
明慧ネットで、『道法』という経文を通じて魔難を乗り越えた方法について、中国の同修たちが書いた100近くの文章を見つけ、ひとつひとつ読みました。
そして、中国の同修の学びや修煉と比較し、自分の修煉における不足を探しました。
師父は、私が自分自身の問題点をいくつか自覚し、これらの執着を取り除こうとする願望を持っていることを見て、いくつかの試練を用意してくださいました。
例えば、同修が真相を伝える際に難しい問題に遭遇したときには、それが習慣であるかのように私に電話をかけて解決方法を尋ねてきます。しかし、その時私は痛みで話すことができませんでした。
あるいは、同修が電話での私の声がおかしいことに気づき、私が消業中で、しかもその症状が軽くないことを知っていながら、それでも私にある緊急事態に即座に対応するよう求めてきました。1、2日おきにこのような事が起こりました。
最初はプレッシャーを感じ、同修が私の状況を理解してくれないことに不満を感じていました。しかしすぐに、これは私の心性が基準に達しているかどうかを試されているのかもしれないと気づきました。
不満の心が減少するにつれて、私の身体の状態に明らかな改善が見られました。しかし、あるひとつの事だけはまだ私を困惑させていました。
旧勢力の按排を認めず、多くの不足を見つけて直しているのに、なぜ病業の難はまだ完全に過ぎ去らないのでしょうか。
私は何度もヨブの物語を思い出しました。ヨブは善良で裕福な人で、神エホバへの信仰は敬虔なものでした。しかし、サタンが神に言いました。ヨブがあなたを敬うのは、あなたが彼に大きな祝福(訳註:キリスト教における「祝福」とは神からの恩寵、恵み)を与えたからです。もしヨブがすべてを失ったとしたら、まだあなたを敬うでしょうか?
エホバは答えました。ヨブを試しても構わないが、ヨブの命に手を出してはいけない。そこでサタンはヨブの富、家族、さらには健康までをも奪いました。ヨブはすべてを失い、体中に膿疱ができましたが、それでもエホバへの信仰は少しも減じませんでした。
それで私は、この物語を思い出すたびに、私が経験しているこの苦痛も師父の承認の下で、邪悪が私を試しているのかもしれないと考えていました。
ある日、『道法』を読んでいると、師父がこうおっしゃっていることにあらためて気づきました。「わたしが皆さんに法の荘厳さ、神聖さを教えた目的は、皆さんの法に対する困惑、誤解を取り除くためなのです」
私は「法の荘厳さ、神聖さ」という言葉に何度も目が留まり、突然悟りました。
大法は宇宙の万事万物を創造する、非常に神聖な法です。師父は旧勢力の按排を認めてさえいらっしゃらないというのに、ましてや弟子たちを試すことを邪悪に許しているなどと、どうして私は考えられたのでしょうか。
こうした古代の修煉の物語を読む時、私は物語の中の修煉者の正しい信念と意志の力にばかり着目し、法輪大法が宇宙の根本的な大法であり、他のどの法門とも比較できない宇宙大法である、という大きな違いを見落としていたことに気づきました。
これまで、このことに気づかなかったせいで、邪悪に隙を与えてしまいました。
私がヨブの話や他の歴史的な物語を繰り返し思い出し、この時の試練もそれらの物語の中の神が了承したように、師父もまた邪悪のなすことを黙認したものだと思い、受け入れて耐えるしかないと思っていたのです。そしてこう思ったことが、全て邪悪の按排だったのです。
師父は『2003年元宵節での説法』で次のようにおっしゃいました。「しかし、いずれにせよ、師父は旧勢力を認めていません。皆さんも認めないでください。正々堂々と良く行い、それらを否定し、正念を十分にするようにしてください。私は李洪志の弟子であり、他の按排は要らない、認めないと思えば、それらは恐れ怯えて手を下すことはできず、何でも解決することができます。あなたが本当にこれをやり遂げることができれば、口先で言うだけではなく、行動においてこれをやり遂げることが出来れば、師父は必ずあなたを支持します」
この一節を読んだとき、私は旧勢力のすべての按排に対する否定が口先だけの否定なのか、行動でも実践できているのかを考え始めました。
最初は、「学法、煉功、正念を発し続けること」が「行動での実践」であり、それが旧勢力の按排を否定していることだと思っていました。
しかし、よく考えてみると、これらはすべて個人の修煉のためにやっていることです。法を正す時期の大法弟子として、私の責任は自分の修煉をするだけでなく、時間を大切にして人を救うことにあるのです。
自分の足りないところが分かり、人を救う行動で本当に旧勢力の按排を否定することを決意しました。そこで、翌日から毎日車で事務所に行き、我が国での2025年神韻巡回公演の準備を始めました。
邪悪はすぐには私への妨害を緩めませんでした。最初の数日間、ときおり針で刺すような強烈な痛みを感じ、それは誰かが鋼の針を握りしめて私の体を刺しているかのようでした。
しかし、その時の私は、もはや無力で消極的に耐えるだけの私ではありませんでした。
自我に執着し、自分を守ろうとするとき、邪悪に隙を与えてしまいます。衆生のため、という基点に立ち、人を救うことに専念するとき、それは新しい宇宙の理に適い、師父が私を支持してくださり、邪悪による妨害を解体してくださることを悟ったのです。
この過程で、師父と法に対する信仰の不足という表れにも気づきました。その表れとは、「どうすれば仕事を分担して自分の時間を節約できるか」ということについてこの時期に心をとらわれていた、ということでした。頭を悩ませても、良い解決策は見つかりませんでした。
ある日、心の中で師父にお願いしました。「師父、私の最大の願いは法を正す中で、師父の要求を果たせる弟子になることですが、現在の修煉状態では、なすべきことすべてをうまくこなせません。どれを自分で分担して、どれを誰かに分担してもらうべきかもわかりません。師父、助けていただけませんか?」
不思議なことに、この念を発した後すぐにある同修が、自分に何か手伝えることがあるか、と自ら申し出てくれました。
抱えていた仕事のなかに、ある複雑で非常に重要な仕事がひとつありました。この仕事については安全性の要求も高いため、担ってくれる適切な人を見つけられず、自分でやるしかないと思っていたのです。しかし、自分でやるには時間が足りず困っていたところでした。
手伝うと言ってくれたこの同修は普段非常に忙しいため、彼女に助けを求めようと思ったことはこれまでなかったのです。彼女が最近、仕事の一時的な変化で少し時間が空いたことももちろん知りませんでした。
しかし、師父は私たち一人一人の状況をご存じで、私を助けるためにこの同修を遣わしてくださったのです。このような按排は他にもありました。
この魔難を経験して、古い修煉者にとっても、これまでの修煉の積み重ねをあてにして安心することはもはやできない、ということを深く感じました。私たちの修煉ができた部分はすぐに隔離され、人間の中に残っている部分は、修煉の初心に戻って積極的に大法に同化してこそ、本当に昇華し、大法が私たちに与えた新しい基準に達することができるのです。
師父が常に私を見守り、魔難に陥った時には法を学ぶよう導き、法理を示し、私の本性の一面を呼び覚まし、一歩、また一歩と私を向上させ、魔難から抜け出させ、さらに細やかな按排によって助け手を遣わし、仕事上の困難を解決してくださったことを思えば、師父への感謝の気持ちを表現する言葉がありません。
師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございます!