文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月9日】個人の修煉における執着心の除去から師父の法を正すことに協力することまで、大法弟子の全体的な修煉は最終段階にまで達しました。私たちが現在直面している妨害やいわゆる試練を見て、私は思わず考えてしまいます。法を正す弟子にとって、どのような状態が危険なのでしょうか?
師父はこう説かれました。
「…その次元で生じるべきでない念が生じ、その次元ですべきでないことをすると、そのためにそこから落ちてしまうこともあり得ます。実はそれほど簡単なことではありません。人間の思想は活発なので、どんな考えも生じ得るのです。それはあなたの後天的に形成された雑な観念や各種の業力が作用しているからです。それがなければ、あなたは人間の考えが清浄であることに気付くのです。佛の境地に達することができれば、そういう低能なものは全くなく全て高尚なものです。何でも知っており、牛や馬の考えすら知っていますが、心が動じることなく、考えたくもなく、念を動かさなくても全てを知っているのです」(『ニュージーランド法会での説法』)
法を正す修煉において、圓満成就の一般的な基準に達するだけでは不十分だと私は信じています。もし私たちの今日の考えが、その純粋な境地まで大幅に達することができなければ、その高次元に達することはできないのです。
師父は私たちが人間界に留まるために、人間としてのものを残してくださいました。私たちは迷いの状態の中で、法を学ぶことによって生じた正念に頼って精進を続け、衆生を救う使命を全うします。しかし、人間の観念によって基準に達するのを妨げてはいけません。(訳注:「人間としてのものがあるから、大法のことを行い、修煉することもできるようになります」『二〇〇三年元宵節での説法』)
各次元の基準を満たし続けることで、私たちはさらに向上することができます。精進の状態を維持することは非常に重要です。私たちが日々の生活で考えること、言うこと、行うことはすべて、各次元の基準を満たしていなければなりません。
もし私たちが考えてはいけないことやしてはいけないことを頻繁に考えたり、行ったり、あるいは大法に対する理解や認識が長い間同じ次元に留まっていたとしたら、それは危険です。
もし私たちの思考がしばしば人間的なもの、あるいは下品な主題に集中するならば、それはさらに危険です。
例えば、現在法を正す中での私たちの修煉において、法に対する理解と認識が個人の修煉、つまり病気治療と健康を保ち、執着を捨てて個人の圓満成就を達成するという次元にとどまっているとしたら、それが長く続くと、危険な状態になるのではないですか?
師父はこう説かれました。
「宇宙の真理に対する堅固で破壊できない正念は、善良な大法弟子の、磐石のごとく堅固な金剛の体を構成しています。すべての邪悪は驚き恐れて、放たれた真理の光は、あらゆる生命の正しくない考えの要素を解体します。強い正念であればあるほど、大きな威力があるのです」(『精進要旨二』「同じく二言三言」)
金剛の体は修煉中に発生したエネルギーによって強化される必要があります。各次元で法の要求を満たさないと、邪悪な勢力が私たちの隙間を見つけて利用します。これが、多くの修煉者が依然としてさまざまな程度の病業を経験したり、不当連行され迫害されたりしている理由の一つです。
個人的な認識なので、適当でないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです。】