個人の利益を軽く見て修煉の奥深さを体得する
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文/海外大法弟子

 【明慧日本2023年8月5日】1年間の修煉状態を振り返ると、私は心性が向上し、法理を理解した後の喜びもありますが、法理不明のため、どう判断するか分からなくなり、物事が思った通りに行かず、悔しい気持ちになることもあります。感無量の余り、起伏だらけの修煉の過程で悟った修煉の奥義を整理しました。その中には、師父の慈悲的な見守りと諄諄とした教えが含まれています。

 個人の利益を追求すると、人は落ち着かなくなる

 『轉法輪』にはこう書かれています。「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」[1]。心の中でこの上なく穏やかで、何も私の心を動かせない状態に憧れています。しかし、現実の中では、私の心はしばしば特定の人物や出来事によって揺れ動いてしまいます。例えば、私のある家族の同修がほぼ毎日コンピューターゲームや携帯ゲームをしていました。何度も彼に法理に基づいて、その危険性を理解させましたが、彼は元のように振る舞って直しませんでした。それを見ると私は焦りや怒りの感情が湧いてきます。仕事において評価を待つ時や、勉強において、指導教官との面談時に、いつも不安な気持ちになります。ある人が私の前でいつも堂々と自分を高めたり、他人を貶めたりするのを見ると、嫌悪感を抱くことになります。

 内に向かって探した結果、これらのネガティブな感情の大部分は、物事の表面的な正誤や未来への期待、良い名声など、個人的な利益への執着から生じていることと分かりました。それを得たいと渇望し、それが得られないことを心配し、それが本当に得られないとまた怒ったり恨んだりします。自分が損得ばかりを気にかける人間だと感じます。その個人的な利益に執着して不安になることが多く、安心感がありません。

 今の社会では、無神論や進化論の影響を受けて、人々はより多くのものを手に入れるために、無意識のうちにあれやこれやと追い求めます。それは自分自身の安心感を得るためだと思います。安心感はもちろん生死に関わるものではありませんが、人によって、安心感を与えるものは違います。小さな子供にとって、たった一つのおもちゃは安心感を与えてくれます。ある人にとって、財産は彼に安心感を与えます。誰もが求めるこれらの安心感はすべて個人の利益に属するものであり、自分がそれに駆使されて前に走り、外に向かって探し続けています。これらの個人的な利益は外部から得られるものであり、単に客観的に何かを手に入れたというだけではありません。主観的には良い評価を得たと思うかもしれませんが、実際にはこれらのものはすべて外部のものです。表面的には私が何かを手に入れたように見えるかもしれませんが、実際、それらは他者から供給されているもので、他人の手から、あるいは他人の口から得たものです。現実的には、他人から獲得しなければならないことを反映しています。

 このようにして、外に求めることになります。「名声」は自分で育て上げる必要があり、「利益」は自分で獲得する必要があり、「情」は自分で育む必要があります。求めている過程には不確実性、つまり不安感があります。自分の努力不足あるいは過失により、望まない結果になることを恐れているため、強い不安感を伴って、非常に慎重に物事を進めます。

 ある日、なぜ私は、この世界のこんなに多くのことに対して、不安や不確実性を感じているのでしょうか? この世界は、本当に物事に対して定められているのでしょうか。法理にはすべてのものは因縁があり、物事すべて決まっていると明らかにされています。この宇宙の運動には規則があり、人類社会のすべての発展も確実で、すでにそのすべては、神が手配したものであることを明確に教えてくれました。それに、私のすべては師父が按排したものです。私は迷いの中にいるので、多くのことは全く分からないし、しかも見えません。しかし、師父は見ることができます。私たちにとって、師父の按排のすべては、一番良いものです。私は全く心配せず、怖くて焦る必要もありません。このような不安感を持つ必要もないし、外部から誰かの利益を求めて、自分を安心させる必要もありません。その代わり、とても気楽で堅実な気持ちです。

 得失や正誤や現代の変異観念を捨て去る

 私が追求した個人的な利益は非常に多いです。例えば、以前には良い成績を求め、順位を求め、賞を求めていましたが、その後、神韻番組で「絵を鑑賞して、その境地に入る」という詩を見て、私に大きな影響を与えました。番組で演じたように、絵の中の読書人は最初の3つの文だけを書いて、 「少年は志が胸に満ちる、棟梁才に崇める、栄誉ある故郷に帰す」 [2] 、最後の1つの文は空白で、世間の理は確かにこの一歩までを話したようで、人が成功すれば、名誉があって故郷に帰るのは、世間的な意味でこの人に出世があり、成功したと思っています。その後、ある女性がこの絵を見て、その境地に入り、最後の 「今生は何の為に来たのか」 [2] を補足すると、皆は悟ったかのように急に明るくなりました。もし、私がこの前の二十数年間、詩の最初の三句を実践していて、人生の追求に費やしていたとすれば、確かに最後の一句は、私にとって重いハンマーで打たれたようでした。別の考えを見つけなければなりませんでした。以前の考えでは、一つの結末を追求しているようですが、実質的にその結末は根拠がないことに気づきました。

 その後、私はまた他にあってもなくても良いものを追求しました。例えば、メイクや服装に気を使ったり、過度なダイエットや美白を追求したりなどです。だんだんとこれらのファッションアイテムの背後にある考え方が分かってきました。それらの多くが現代の変異的な考え方の行動に属していることに気付きました。それらの宣伝戦略は、一方でスター効果や一般人の社会的地位向上への欲望を利用し、美の概念を作り上げます。また、マスメディアを使って盛り上げることで人々を引き寄せようとするものです。しかし、その美の概念は必ずしも本当に美しいとは限らず、あるいは、多くの人々の体型や容姿に合致しているとも限りません。それによって人々は稀有なものへの欲望を抱くようになり、自分自身の生理的条件や習慣を犠牲にしても、自分と完全に合わない状態を追求して、自分の虚栄心を満足させたくて、あるいはこのような最も簡単な方法で社会階層を向上させます。少なくとも向上しているように見えます。

 もう一つの側面は、人々に自分自身のいくつかの容姿が潮流と違って、それは醜いと感じさせます。したがって、醜いものを隠す心理が生まれ、様々なファッションの達人が醜いものを隠す方法を教えてくれます。これらが現代の変異した観念行為と呼ばれるのは、これらの理念が伝える人生の追求、物事をする動機、極端な思想、気まま勝手に行動する、随波逐流(訳注:ずいはちくりゅう。なんら自分の主張・考えもなく、ただ世の大勢に従うこと)、手段を選ばずに目的を達成することなどは、すべて伝統的な観念と完全に矛盾しているからだと思います。私は、徐々にこれらのことについて少し考えを持ち、選択することに決めました。それによって、私の心構えがより軽やかになり、自然に任せることができるようになりました。自分が持つ条件を受け入れ理解し、それを自分の既存条件の上でもっと最適化し、上手に利用します。無駄な思考なく、自分自身に似つかわしくないものを追い求めるのではなく、本質からの変化を通じて、外見的な感覚刺激を追求することをしないと決心しました。

 もちろん個人的な名声や実力の追求についても、新たに認識ができました。 もし、本当に実力のある人たちすべてが、それに見合った名声を得ることができれば、「黙々と無名」という言葉は存在しなくなるでしょう。

 物事の是非や、正しいか誤りかなどをどう見るかという点では、以前に起こった出来事も私にヒントを与えてくれました。ある時、私は複数の同修とオンライン学法と交流する約束をして、同修Aと事前にオンラインで話をしました。その時、彼女は思わず私に、マイクの音が小さいと感じたかどうか尋ねました。前に彼女のマイクに問題があったそうです。私は彼女の声は小さくはなく、よく聞こえると答えました。その後、他の同修が続々とオンラインになり、みんなが話をした後、同修Aが話をする番になった時、彼女の声は確かに他の人よりずっと小さく聞こえました。そうですね、私は変わっていないし、Aも変わっていませんが、周囲の環境が変わっただけです。対比に使う参照物が変わると、同じ出来事に対する感じ方や描写が驚くほど変わるものです。これによって、人間が一つの物事に対して持つ認識や評価の客観的な限界を強く感じさせられました。ですから、多くの場合、確かに他の人が限定された異なる環境条件のもとで下した評価にあまり気を使う必要はないし、特定の事柄の是非や正誤にこだわる必要もないと思います。

 個人の利益を放下して 心境が広がる 

 このような現実の中で個人の利益に頼って自分を安心させる必要がなくなった時、私は本当に返本帰真の修煉の道を歩み始めました。私は自分の脳の思考をシンプルで純粋なものにしようと努力しますが、個人の利益に執着する過程で、いつの間にか多くの誤った思考と観念を蓄積してしまいました。例えば、自分の勉強と仕事の成果に執着していて、目的性が強くて、仕事の動機は単にある審査を通過するためだけであり、なぜそうする必要があるのか、本質的な理由を理解していません。ただそれがある戒律に従うように、自分にそれをするべきだと思って無理に課して、自分がしたくないことや興味のないことをやるようになってしまいます。急功近利で高望みしているので、心が浮かれて、落ち着きません。物事を行う時、ごまかして、真剣にできません。利益や損失にこだわるため、他のことをしている時にもそのことを考え、そのことをしている時には退屈な気持ちから他のことを考えてしまい、集中力を保つことが難しく、混乱して良い状態になれないことがよくあります。 

 師父の按排には本当に感謝しています。常人の視点から見れば、どのようにこれらの仕事に関する興味を持つ方法を探せるか、また、無理に自分を追い込む必要はなく、何かを無理やりやるのは短期的なものだけだと教えてくれました。修煉の面から言えば、万事万物はすべて真・善・忍の特質が含まれており、これらの仕事も同様に法が常人社会という最低レベルの表れであり、それらは個人的な利益を得るための手段ではなく、常人の中で法を実証する機会を提供するべきである。このプロセスで出会うすべての人々、すべての事物は救われるのを待つ対象であり、個人の利益に執着しているからといって、自分とそれとを対立させてはならない。勉強や仕事や修煉はお互いに補完し合う関係であり、全体的に向上し、昇華していくものである。このような力こそが長期的かつ絶え間なく続くものなのであると悟らせてくれました。

 物事を行う過程で、もし私の基点が個人的な利益のためであれば、避けられないネガティブな感情、心配、焦り、怨み、自己満足などが生じます。まるである特定の対応している空間で暗くネガティブな物質が生じるようです。これらの物質は光を嫌うものですので、表したのは心細く、自信を持てず、堂々としていられないし、心の中で後ろめたさを感じています。しかし、もし私が個人的な心を持たず、完全に他人のために行動するならば、心の中でやましさを感じることはないでしょう。これにより、「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」[1]に対してより具体的な理解が得られるようになりました。

 結語

 確かに、個人的な利益を得ることは一時的に人に快感をもたらすかもしれませんが、結局のところ、この満足感は一時的なものであり、その過程で生じるマイナス物質は、苦痛をもたらし、大きなストレスと心の負担を生み、それを取り除くことは非常に難しいです。それに対して、個人的な利益を軽く見た後の喜びは、長期的かつ堂々とします。そこで私は個人的な利益に執着しないように注意するようになり、自分が持っている条件を楽しむようになりました。世間の宣伝や他人の言動に引っ張られて何かを求めることはしません。独立した理性的な思考を持つようになり、自分が何を必要とし、何を必要としないかを知り、時流に流されず、自然に従って行動することができるようになると、表面的にも束縛から解放され、軽やかで自由な心境になります。

 以上、私が個人的な利益を軽く見ることに対する悟りです。もし、ある点で法に沿わない部分があれば、同修の皆さまからの指摘をお願いします。

 師尊に感謝します!

 同修に感謝します!

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟五』「絵を見て、その境地に入る

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/6/11/461824.html)
 
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