文/中国遼寧省の大法弟子
【明慧日本2025年3月8日】師父はこれまで何度も法を説かれる中で、「初心を忘れずに修煉する」ことについて言及されてきました(『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」)。学んだ後、私はいつも自分の「初心を忘れずに修煉する」という状態とはどのようなものかを考えていました。何度も思い返して浮かんできたのは、私が本当に修煉を始めたのは、真冬のことでした。中国東北部の冬はとても寒く、夜、自転車に乗って師父の説法の映像を見に行く道中、厚着をしているわけでもなく、北風が吹きすさぶ中、背筋を伸ばし、笑顔で風を切って走っていました。修煉者はお酒を飲んではいけないので、どんなに親しい友人に勧められても断りました。道を歩いていて、動かせない荷物を持とうとしている人を見かけると、力の限り手助けしました。手を切ってしまったときも、自分のどこが間違っていたのかを内に向かって探しました。あの頃は、一日を通して何があっても、心が満ち足りていました。
今振り返ると、当時の私は法を深く信じ、少しの疑いもなく、師父がおっしゃる通りに実践していました。そして、苦しみに対しても恐れることがありませんでした。
では、圓満成就へ向かう最後の修煉の段階では、どのような状態であるべきでしょうか? ある日、同修と交流する機会がありました。彼女は、「毎日『轉法輪』を一講ずつ暗唱し、各地の説法も読んでいます。明慧ネットの交流文章も毎日読み、四つの正時の発正念を一度も欠かさず、午後や午前には真相を伝えたり、資料を配ったりしています。同修の仲間も皆、法を暗唱しています」と話してくれました。それを聞いて、私は「これは師父が私に示してくださった啓示だ」と悟りました。大法弟子は三つのことをしっかり行うべきであり、その第一歩は、法をよく学ぶことです。私も毎日法を暗唱しており、通常は一日6ページほどです。最近は、スマホの妨害が本当に大きく、少し油断すると引き込まれ、時間を大量に浪費し、さらには邪悪な物質を注ぎ込まれてしまいます。そこで、私は今、法の暗唱を強化し、少しの時間も無駄にせずに学ぶようにしています。前回は26日で一周しましたが、少し速さを求めすぎたように感じたので、今回はより質を重視して取り組んでいます。
発正念は、私が最も苦手としていることでした。夜中12時の発正念はほとんどできておらず、そのせいで自分の空間場が正しくなくなり、同修にも影響を及ぼしてしまいました。同修は私が住んでいる団地で真相資料を配布しているときに通報されてしまいました。幸い、彼は看守所で病業の虚像が現れて戻ってきましたが、それでも私は発正念の重要性を真剣に考えませんでした。
数日前、私の地域の同修が病業の形で迫害を受け、亡くなりました。入院の話を聞いてから亡くなるまでわずか1週間でした。あまりにも早い出来事でしたが、それでも私は重視せず、彼のために的を絞った発正念を一度も行いませんでした。私は自分自身を深く省みました。発正念を軽視し、学法中は眠気に襲われ、朝の煉功にも起きられず、夜中12時の目覚ましが鳴っても無視していました。他の時間に発正念をしても、ただ義務的にこなしているだけでした。
私はこの状態を変えなければならない、発正念を重視しなければならない。そう思い、以前に同修からもらった明慧編集部の「発正念を重視する」録音特集を聞きました。その瞬間、それはまるで醍醐灌頂(知恵を授けて悟りを開かせる)のようで、師父がなぜ私たちに発正念をさせるのかをはっきりと理解しました。そして、発正念の重要性を理性的に認識しました。旧勢力の邪悪な妨害を一掃しなければ、多くの衆生を救い、師父が法を正すことを手伝うという私たちの先史の大願を成し遂げることはできません。
この気づきを得た後、私は同修たちにも「発正念を重視する」録音特集を勧めました。そして、四つの正時の発正念に加えて、毎週日曜日の午後2時から4時の地域全体での発正念も続けるように伝えました。その時、4人の同修と一緒に発正念を行い、気がつくと私はなんと2時間も座り続けていました。これは、7.20の迫害が始まって以来、初めて一度に2時間も座禅をした経験でした。
それ以降、私の修煉は大きく変わりました。自信を取り戻し、1時間の座禅は最初痛みがあり、しばらくすると楽になり、また痛くなるという消業の状態を再び感じるようになりました。それまでは少し座っただけで足が自然と崩れてしまっていました。同修のアドバイスを受け、発正念の回数と時間を増やすことにしました。夜の7時、8時、9時、10時と時間が来るたびに発正念をし、昼間もできる限り正時ごとに行うようにしました。夜10時にはとても眠くなりますが、座ったり歩いたりしながら発正念をしました。すると、夜12時の目覚ましの音が聞こえるようになり、起き上がることができるようになりました。歩きながら発正念をし、同修と同じように夜中12時の発正念をしっかり行えるようになりました。今もなお突破を続けていますが、朝の煉功は確実に行えるようになりました。
発正念を重視するようになって、他の面でも変化がありました。これまで明慧ネットの閲覧がスムーズでないことが多かったのですが、今では以前ほど困難を感じません。これは、私が発正念を重視するようになったことと関係があるのではないかと感じています。
私は、師父の教えを真に聞き入れ、三つのことをしっかりと行うためには、常に「内に向かって探すこと」を実践しなければならないと考えています。
日常生活では、妻である同修とよく意見の食い違いが生じます。彼女はとても強い性格で、党文化の影響を多く受けています。毎日一緒に学法を続けていますが、彼女はあまり煉功をしません。仕事が非常に忙しく、頻繁に残業するため、家での食事の準備や家事はほぼすべて私が担当しています。彼女は仕事から帰宅すると、入るなりあれこれ文句を言い、これがダメ、あれも違うと指摘します。私は時々思います。「あなたも学法をしているのに、なぜこれも気に入らず、あれも受け入れられないのですか? 嫉妬心がこんなに強くて、大丈夫なのですか?」と。
ある日、家の冷蔵庫の冷凍室に厚い氷がたまっていたので、妻が「時間があるときに電源を切って、氷を溶かしてね」と言いました。夕食の準備が終わった後、私は冷蔵庫の電源を切り、氷を溶かし始めました。うちの子供は水遊びが好きなので、手伝いたがり、布巾で溶けた水を拭き取り始めました。私は小さな洗菜用のボウルを冷蔵庫の中に、大きな洗足器を外に置き、小さいボウルにたまった水を大きな洗足器に流すようにしました。そのとき、私は同修と用事があったので、少し外へ出ました。戻ってくると、子供は冷蔵庫の前にいませんでした。私は「冷蔵庫の氷、全部溶けたかな?」と声をかけました。すると、妻が突然ヒステリックに怒り出しました。「あなたって本当にだらしない! 汚い! 食卓を拭く布巾を洗足器で洗うなんて! そんなに平気なら、トイレでご飯でも食べたら?」 私は何のことかわからず、見てみると、息子が布巾を大きな洗足器の中に入れていました。それを見て、私は少し反発を感じ、「たかがこんなことで、そんなに怒ることないだろ? ちょっと用事があって出かけてただけだし、それに君も家にいたじゃないか」と言い返しました。
しかし、妻はさらに大声で、まるで戦いでもするかのように言いました。「あなた、自分の仕事だって思ってないでしょ? これは全部、あなたがやるべきことなのよ!」私は言い返しませんでしたが、心の中で「自分のどこが間違っていたのか? 私は何を誤っていたのか?」と自分に問いかけました。すると、突然理解しました。妻が長い間見せていたこうした態度は、私を向上させるための助けだったのではないか? 本来、自分が向き合うべき問題や耐えるべき苦難を、私は他人の「真・善・忍」に対する理解に基づいて推し量り、自分の責任を避け、隠していただけだったのではないか? 私はいつも、最初に相手の問題を考え、「相手がどうすべきか?」とばかり思い、自分のどこが間違っているのかを考えていませんでした。しかし、まさにこの一連の出来事が、私に自分の心の奥底を見せてくれました。「人を見下す心」「他人に批判されるのを受け入れたくない心」「争う心」「非難されたときに冷静に対応できない心」……さらに、「怨みも恨みも持たない」という境地にもまだ達していなかったことに気づきました。
こうしたことを悟った後、妻の態度も変わり、より思いやりを持つようになりました。時間があれば、もう朝寝坊することもなくなり、自分から学法に時間を割くようになりました。
私たちの地域の現状を考えると、思わず涙がこぼれます。過去を振り返れば、どれほど輝かしい時期があったでしょう。同修たちは苦難を恐れず、あらゆる場所を巡り、車で片道1時間半かかる地域まで足を運び、一軒一軒に真相資料を届けました。私たちは、多くの人々が救われたときの喜びに満ちた笑顔を見てきました。
しかし、今、どれほど多くの同修が病業の形で迫害され、命を落としてしまったでしょう? どれほど多くの同修が投獄され、今もなお黒い牢獄の中で苦しんでいることでしょう? そして、残された私たちは、困難の中で徐々に精進する意志を弱めてしまってはいないでしょうか?
師父の法を正すことはまだ終わっていません。まだ多くの衆生が救われていません。私たちは法を正す時期の大法弟子です。決して沈んではなりません。師父が求められる三つのことをしっかり行い、師父が法を正すことを手伝い、衆生を救い、初心を忘れずに修煉する状態を取り戻し、修煉者として最も良い状態に戻らなければなりません。使命を決して裏切ることなく!
これは私の個人的な体験です。同修の皆さんと分かち合いたいと思います。不適切な点があれば、どうかご指摘ください。